2013年10月26日土曜日

浮田要三 "無題" (2013年)

右へ倣え、ではない。
右向け右、ではさらさらない。

世界を映す黒は左に・・・。

この切り絵を飾るところは、壁の余白よりも枕元の方がいい。

2013年10月25日金曜日

GALERIE CINQ オープニング・エキシビション 井上明彦展「ふたしかな屋根」 (奈良市旧市街)


インスタレーション「雨宿りするレーニンのための習作」

雨とは、もっともストレートな意味での雨そのものから、まるで自然現象のような顔をして人々を抑圧し心身を縛り上げる資本主義の禍(わざわい)の喩まで、幅広いグラデーションをもっているが、それがめぐみの雨でないのは明白である(立場の異なる人にとっては「めぐみ」と解される場合もあろうが)
そしてレーニンとは、理想世界を夢見る全ての人々の象徴としてあるのだろう。

トタン、鉄、木などの廃材や西アフリカの土顔料などでつくられたこの光景は、スラムの街で人々が暮らしを営む小屋を意味しているのだという。
メタフォリックな、あるいはシンボリックな図像が描かれた小屋の、どの屋根にも傾きがある。

物質やイメージなど様々な位相を横断するように、拡散するように、収斂するように、いくつもの寓意が込められている。
降り続く雨を避け、
レーニンは 軒下で佇んでいる
スラム化するこの惑星の片隅で

だが、
止まない雨はない

GALERIE CINQ (ギャルリ・サンク) 10/13~10/26 



2013年10月1日火曜日

稲富春菜展「存在のあと Traces of existence」 於、KUNST ARZT(京都・三条神宮道)

アクリルケースには、温度計を封じ込めた氷が存在していた。その氷は、作家自身の体内水分量と同じ体積の水を氷結させたものだという。
展覧会を訪れたのが5日目だったので、室温にさらされた氷はすべて融解し、水は天板に穿たれた孔を抜けて下の槽に溜まっていた。氷が載っていた天板には温度計が取り残され、その裏側には今にもしたたり落ちんばかりの水滴が微妙なバランスで付着している。そこから、幾分かの水は揮発し、氷が溶け落ちてもなお、この空間を共にする人々の熱に感応していることがわかった。

5日目というのは、そこに氷が存在していたことを確認するのにいいタイミングだったのだろう。

シャーレには一枚のオブラートが敷かれ、表面にクレーター状の窪みがひとつ。
これは稲富さんが育てている植物が、ある朝、葉先からしたたり落とした一滴の露の痕跡である。

これはギャラリー南面の窓である。風雨や排ガスが窓ガラスに付着させた塵や埃を"空気が行ったドローイング"とみなし、その中央部を丸く拭き取ることで、自然が人工物に施した場に作家が介入する。しかし交通量の多い三条通に面した窓は、会期中にも空気によるドローングは続いてゆき、鑑賞者はそのありさまを確認すべく目を凝らす。ここでは存在と時間をめぐる問いが投げられているようだ。(この写真では判別できないのが残念)


流動と循環をどこまでも繰り返す水という物質は、ときに恐ろしい一面をも見せつけるが、人が生きてこの世にあるかぎり、水との関係を絶つことはできない。生命にとって欠かせないものであるがゆえに、日常の中でそのありがたみを忘れてしまうこともある。しかし、ときに見せる美しい姿は私たちの心をとらえて離さない。そしてとらえられた心は、想像の翼を広げ飛翔してゆく。

稲富さんは自然現象を利用したり自然によって形づくられた場に介入したりすることで、自己と他者との間にある美術のあり方を、水という物質を通じて追究する。追究するのは美術のあり方であると同時に、人やモノや世界といった存在をめぐる様々な問題でもあるのだろう。
その営みからは、作品が自己と他者のみならず、他者と他者との、あるいは他者と世界との仲立ちとしても存在しうるということ、ひいては共にあることへの深い信頼が感じられた。

KUNST ARZT(クンスト・アルツト)  9/24~9/29

厚手のトレーシングペーパーでつくられた封筒にミルラという香油の原液(稲富さんが自身で抽出)が封入され、両の掌で挟むと熱で香油が溶け香りが立つというもの。来場者に配られたお土産である。