2013年11月14日木曜日

藤井貞和 「蛸壺」 (+詩作ワークショップのお知らせ)


「蛸壺」

神話の日、
蛸があつまって、
そのなかの、
垂直のあしをした、
いっぴきが、
蛸壺に、
真珠を連れて、
引きこもる。
引きこもりの起源を、
このようにして語る。
神話の日、
引きこもりを終えると、
祝福のために、
蛸壺から出て、
アマミコのもとへ、
慶賀を、述べに行ったまま、
帰らぬ蛸となる。
 (アマミコのもとで、
 あわれ包丁をいれられて、
 台所のつゆと消えたと云う)
蛸壺のなかに、
のこされた、
真珠。 天にあおげば、
波の光の、さざめきを、
見るばかり。
真珠貝はいずこ。母の、
胎内から、
連れ出されて、
蛸壺に。
あわじしま、
しまかげ長閑(のどか)な、
真珠はふとる、
蛸壺のなか。
けいのうら、いまや蛸壺よりも、
大きな図体にそだった、
真珠。 出られない、
真珠は嘆息する、
蛸壺こそよけれ、「たこつぼ」と書く。
蛸に対して失礼だな、蛸壺という比喩。
壺に対しても失礼だ。
蛸壺から、
あしが生える、垂直に。
蛸足配線の、
コウドが八本、
ガジュマルの根をおろす。
無数の、真珠が、
根をはいのぼる。
おねえちゃんを助けろ、
おねえちゃんを救え。
母が真珠貝だとは、
かぎらないのです。
鳥貝科、鮑貝科、貽貝科に属する貝も、
その他の貝も、
つくることのできる真珠です。
蛸もまた、
真珠を産みたいと思いました。
蛸の全身が、
真珠層になりました。
神話の日、
なると海峡の、
大渦巻のしたで、
蛸の死骸が、
真珠を産んでいます。

(詩集『神の子犬』所収,2005年,書肆山田)



11/18(月)、18時より京都精華大学情報館1Fメディアセンターホールにて藤井貞和詩作ワークショップが開催され、清野雅巳さんと私がサブ講師として登壇します。詩の応募はすでに締め切っていますが、一般の聴講を歓迎しております。
http://johokan.kyoto-seika.ac.jp/modules/contents/index.php?content_id=536

また、11/19(火)、10時40分より京都精華大学黎明館L201教室で藤井貞和さんの特別講義「うたの文化論」もあります。こちらも一般に開放された貴重な機会ですので、ご興味のある方はぜひ。

京都精華大学へのアクセスについてはこちらをご覧下さい↓
http://johokan.kyoto-seika.ac.jp/modules/contents/index.php?content_id=19

2013年11月3日日曜日

高木智広展「此方×彼方」 於、Gallery PARC (京都・三条御幸町)

高木さんの絵はオーソドックスなシュルレアリスム絵画であるといっていい。だが見た目がそれっぽい、などといった皮相な理由でシュルレアリスムなのでは勿論ない。
作家は、自身が描く図像や形象の意味を、明確に意識しながら描いているわけではない。にもかかわらず、なのか、だからこそ、なのかも判然としないままにモチーフが反復されてゆくその営みは、とりもなおさず、無意識の底へと降りてゆくことであるのだろう。
作品の前に立って視線を動かすうちに、鑑賞という行為を根拠付ける、特権化された視線や視座が次第にぐらついてゆく。そうして、降りてゆく深み、低み、そこに滞留する闇が現実の底にある闇であることに、ある瞬間、はっと気づかされるのだ。
作家の、であるのか、私の、であるのか、それを截然と区別することを可能にしていた条件が曖昧模糊とした闇に溶けていることに気づいてしまうのだから、その体験は恐ろしいことであるに違いない。が、楽しいことであるといってみてもあながち外れてはいない。
キャンバスの、あるいは剥製の群を隔てる薄い膜のこちら側からあちら側へ、あちら側からこちら側へ。いずれも、現実へと強く肉迫してゆくこと以外のなにものでもない。
眼差し、眼差される、関係の内に入ってゆくことを通じて。

Gallery PARC 「此方(こなた)×彼方(かなた)」 10/29~11/10