高木さんの絵はオーソドックスなシュルレアリスム絵画であるといっていい。だが見た目がそれっぽい、などといった皮相な理由でシュルレアリスムなのでは勿論ない。
作家は、自身が描く図像や形象の意味を、明確に意識しながら描いているわけではない。にもかかわらず、なのか、だからこそ、なのかも判然としないままにモチーフが反復されてゆくその営みは、とりもなおさず、無意識の底へと降りてゆくことであるのだろう。
作品の前に立って視線を動かすうちに、鑑賞という行為を根拠付ける、特権化された視線や視座が次第にぐらついてゆく。そうして、降りてゆく深み、低み、そこに滞留する闇が現実の底にある闇であることに、ある瞬間、はっと気づかされるのだ。
作家の、であるのか、私の、であるのか、それを截然と区別することを可能にしていた条件が曖昧模糊とした闇に溶けていることに気づいてしまうのだから、その体験は恐ろしいことであるに違いない。が、楽しいことであるといってみてもあながち外れてはいない。
キャンバスの、あるいは剥製の群を隔てる薄い膜のこちら側からあちら側へ、あちら側からこちら側へ。いずれも、現実へと強く肉迫してゆくこと以外のなにものでもない。
眼差し、眼差される、関係の内に入ってゆくことを通じて。
◆Gallery PARC 「此方(こなた)×彼方(かなた)」 10/29~11/10
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