【タイトル】制限と超越 二元性、その現象学と形而上学
【作家】中屋敷智生 薬師川千晴
【キュレーター】京谷裕彰
【会期】2020年12月5日(土)~12月20日(日) 13:00~19:00(最終日は18:00まで)12月9日(水)、15日(水)休廊
【会場】Space31
〒658-0054 神戸市東灘区御影中町1-8-3 メゾンユイト3F
TEL:080-1455-5906
〒658-0054 神戸市東灘区御影中町1-8-3 メゾンユイト3F
TEL:080-1455-5906
【アクセス】阪神本線「御影」駅より徒歩3分/JR神戸線「住吉」駅南出口より徒歩10分
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相対立するもの、二律背反するもの、両極に引き裂かれてあるもの、せめぎあうもの、差異は微妙でありながら相容れないもの、併存しながらも異質なもの、露わなるものと密かなるもの、真なるものと非真なるもの・・・。それらの存在に面前する、とはいかなることか? 意識や意志、あるいは創造性が二つの異なる要素ともろともに対峙する、あるいは回避する、そんな現象について感性や思考をめぐらせる。
論理を内在的に表象する中屋敷智生さん、物理的に明示する薬師川千晴さん、二人の絵画が並び立つことによってしか開示されえないものへと意識を差し向けてみよう。その彼方には何があるのか?
論理を内在的に表象する中屋敷智生さん、物理的に明示する薬師川千晴さん、二人の絵画が並び立つことによってしか開示されえないものへと意識を差し向けてみよう。その彼方には何があるのか?
京谷裕彰
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・ご来廊の際は、マスクの着用をお願いいたします。
・体調が優れない方、発熱症状のある方はご来廊をお控えください。
・混雑が予想される際、入場制限を行う場合があります。
・体調が優れない方、発熱症状のある方はご来廊をお控えください。
・混雑が予想される際、入場制限を行う場合があります。
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キュレーター・ステイトメント
・相対立するもの、二律背反するもの、両極に引き裂かれるもの、せめぎあうもの、差異は微妙でありながら相容れないもの、併存しながらも異質なものへ。意識や意志、創造性が二つの異なる要素ともろともに対峙することでしか志向できない領域について、あるいはまた、かかる存在や現象に面前するも回避せざるを得ない精神について、感性や思考をめぐらせる。
・二つの異なる要素とは、たとえば自と他、表と裏、奇数と偶数、右と左、上と下、前と後、光と影、プラスとマイナス、直線と曲線、など具体性をもった対として現象する場合もあれば、見えるものと見えないもの、有と無、真なるものと非真なるもの、などまったき抽象性の中でしか意識に上らないものもある。
それら二つの異なる要素、その現象への面前を通じて、ある〈高み〉へと飛翔すること、〈彼方〉へと超えゆくことを、実存哲学を参照し、ひとまずは〈超越〉と呼ぶことにする。
〈高み〉とは〈低み〉である場合もあろうし、〈低み〉こそが〈高み〉である場合もあろうし、〈彼方〉とは〈此方〉や〈後方〉にあるかもしれない。いずれにせよ一義的なものではない。
・制作の「制」という漢語には「つくる」の意があるが、「さだめる」「おさめる」の意もあり、その場合、制作行為は「作」を「制する」こととして何かを生み出すための〈制限〉を表徴する。〈制限〉がなければ形あるものを生み出すことができない芸術にあっては、〈制限〉こそが〈超越〉のための条件となる。
一方で〈超越〉を回避したり留保したりすることもまた、〈制限〉であるに違いない。
・論理を内在的に表象する中屋敷智生さん、物理的に明示する薬師川千晴さん、二人が並び立つことによってしか開示されえないものへと意識を差し向けてみる。
・ここに〈美学〉や〈政治〉をめぐる現下の様々な情況を超えてゆく、希望と言い得るなにかを賭けられないだろうか。
二人の作家それぞれの営為を通じ、私たちにとっての〈超越すること(自己超克)〉に、なにかしらの糧が得られればと考えている。
・二つの異なる要素とは、たとえば自と他、表と裏、奇数と偶数、右と左、上と下、前と後、光と影、プラスとマイナス、直線と曲線、など具体性をもった対として現象する場合もあれば、見えるものと見えないもの、有と無、真なるものと非真なるもの、などまったき抽象性の中でしか意識に上らないものもある。
それら二つの異なる要素、その現象への面前を通じて、ある〈高み〉へと飛翔すること、〈彼方〉へと超えゆくことを、実存哲学を参照し、ひとまずは〈超越〉と呼ぶことにする。
〈高み〉とは〈低み〉である場合もあろうし、〈低み〉こそが〈高み〉である場合もあろうし、〈彼方〉とは〈此方〉や〈後方〉にあるかもしれない。いずれにせよ一義的なものではない。
・制作の「制」という漢語には「つくる」の意があるが、「さだめる」「おさめる」の意もあり、その場合、制作行為は「作」を「制する」こととして何かを生み出すための〈制限〉を表徴する。〈制限〉がなければ形あるものを生み出すことができない芸術にあっては、〈制限〉こそが〈超越〉のための条件となる。
一方で〈超越〉を回避したり留保したりすることもまた、〈制限〉であるに違いない。
・論理を内在的に表象する中屋敷智生さん、物理的に明示する薬師川千晴さん、二人が並び立つことによってしか開示されえないものへと意識を差し向けてみる。
・ここに〈美学〉や〈政治〉をめぐる現下の様々な情況を超えてゆく、希望と言い得るなにかを賭けられないだろうか。
二人の作家それぞれの営為を通じ、私たちにとっての〈超越すること(自己超克)〉に、なにかしらの糧が得られればと考えている。