この、差異を軌跡として執拗に反復し続ける書物は、詩集と呼べるのか、それとも詩ならざる何ものかの集積であるのか―ある者にとっては単なる戯れ文の寄せ集めでしかないだろうが―、いずれにもせよ百人百通りの困惑へと導く書物である。原書は1947年に出版された。
究極の言語遊戯、と帯にも書いてある。
ふむ。しかし、これでは何を言ったことにもならないだろう。
いかにもそうである。
だからそれと同列の、あるいは同級の言葉たちに投げかけられるこのような非難への反論は、射通しつつ反射する甲冑を生来?纏っている詩人には、やはり何ほどの意味もないのだろうか。
いやいや、そんなことはあるまい。
わざわざ亰雜物的野乘などに書き記すからには、ひとつだけ確実だと思っていることを言っておかねばならない。
この書物は来るべき詩、
すなわち、
つねに新しい、非物質的かえるの唄、
を準備する者へと差し向けられた書物なのだ(ろう)。
それは清冽ですらある。
これは俺の準メタボ腹に鎮座するお臍の上で、龜と蛙が相撲を取っているかのような面白さである。行事はどうやらネズミらしいが、ミッキーマウスではなく、スーパーラット(クマネズミ)のようだ。取り組みは99番もある。なぜなら、一番一番、勝負がつかないからだ。いや、龜も蛙も、これを勝負だとは思ってなさそうだ。
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