Gallery OUT of PLACEで始まった中島麦の個展「悲しいほどお天気」は、ギャラリー空間の構造的な特性をユニークに活用した、キャンバス画、壁画、ビデオインスタレーションによる展覧会で、一般的な平面作品を鑑賞するときとは、また違った感覚が味わえる。抽象絵画に馴染みの少ない人であっても、鑑賞のためのとっかかりはいくつもある。
ここでは一つ一つの作品から喚び醒まされた、個人的な解釈や個人的な物語を記述するようなことはやめておこう。
麦の作品を言葉で評することは殊の外難しい。なぜなら、作品に向かう意識と作品から発せられるイメージとがつり合う場所をじっくりと探し出し、そして湧き起こるように浮かぶ言葉でイメージの輪郭を捉えようとしても、その瞬間に何かがすり抜けていく。このすり抜け感それ自体が、これまた躍動しているからである。
だがそれでいて、見る者を決して置き去りにはしない。誰かを不快にさせることもない。
麦のタブローは、目に、そして心に映った風景を随時デッサンしたイメージの集積であるが、悟性的でありながらエモーショナルな方法によって構成されている。色や形、そして筆致といった諸要素が他者の心に喚起する様々な感情の機微を、彼は繊細に感じ取ることができるのだろう。この繊細さに裏付けられた技法によって立ち上がる美的強度は、見事というほかない。
構成されたイメージの集積としての麦タブローは、つねに〈構成的〉である。
家形の小品でさえ、ただ一瞬を捉えたというのではない、持続する時間を感じさせる。それが二段に並べられているのだから、見ていて飽きない。
べた塗りを重ねることによって描かれた空間の奥行きは、空間のみならず歴史的な時間の多層性をも表象しているように思える。それは一見静的であるがゆえに動きが犠牲になってはいる。はたしてそうか? 高度な技術をもった麦が、この二律背反を乗り越える上でいかに果敢な実践をしているのか。その彼岸への志向性は、麦作品の見所である。
とはいえ、おそらく彼にとっても答えはないのだろう。
だが、その力動的な未了性が指し示すものこそが、見る者それぞれの固有の経験、固有の記憶、といった個人的で無限に多様な生きられた時間〈カイロス〉との自由な出会いを可能にするのだろう。
中島麦の絵を眺めていると、意識になにか清冽なものが流れ込んでくる感覚に見舞われる。
静的な奥行きと動的な時間、それらが表象する重層的な時空。動と静、この対極的な価値の彼岸へと、麦の精神は飛翔する。
「塗り重ねられたキャンバスに余白はない。だが、イメージの余白は無限にある。」(詩人W)
・・・・・・Gallery OUT of PLACE(奈良)にて10/10(月)まで。
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