2012年7月30日月曜日
2012年7月29日日曜日
第6回「評論を書くことを考えてみる会」2012.7.28 於、画廊編&ぎゃらりかのこ (大阪・日本橋)
美学研究室の学生や卒業生が、ギャラリーで開催中の展覧会の批評文を書き、それを批評された作家も交えて参加者全員で論じ合うという会である。司会は教授の上倉庸敬(かみくらつねゆき)さん。
これは街のギャラリーで開かれる現代美術の展覧会を同時代的に批評することを通じて、制作・展示と鑑賞という行為の関係や批評言語の可能性と不可能性といった問題を深く考える、言葉のワークショップのようなものと考えていい。
参加者の顔ぶれは美術作家、その友人、ファン、ギャラリスト、編集者、コレクター、現代美術以外の表現者など毎回多彩で、今回は芥川賞作家の吉村萬壱さんの姿もあった。
昨年、この会が始まった頃は趣旨が今ひとつ理解されなかったり、書き手も不慣れであったりしたためいろいろと混乱もあったが、6回目となる今回は丁寧に作家や作品と向き合った文章が集まり、そこから闊達な意見の交換が生まれる充実したつどいになった。
和紙と針金で造形された福田十糸子さんの立体作品。 評者は國本理恵子さんと米田千佐子さん。
「私たちはまず、人形があるということを認識し、つぎに人形の身体を視線によってなぞり、そして人形が表現せんとするするところに思いを巡らせる。このやり方は、私たちが普段社会生活を営むにおいて、相対する人間の表情や仕草から気持ちを読みとろうとする、いわゆるコミュニケーションといわれるものと全く同じプロセスである。」(國本理恵子)
「立体にいつしか親近感を持っている。まるで私たちがすれ違う誰かのように。気付かぬうちに縁を結んでいる誰かのように、彼らに接し出す。彼らは意味の分からぬ形と「誰か」としての私たちの中を行き来する。」(米田千佐子)
廃墟の壁のひび割れやガードレールのひび割れた塗膜をデジタル撮影したものをカラー印画紙に焼き付け、表面を削った松原正武さんの"彫刻写真"。評者は矢野綾さん、鶴田悦子さん、小田昇平さん。
「廃墟の一部を写真のフレームで切り取られ、ひび割れパターンの変化や、彫刻部分と非彫刻部分の間に生まれたエネルギーの高低が、乾いた溝を水が伝わっていくように、画面上で線がのび、互いに絡み合い、空間が網羅されていく、その直前のような静かな勢いを作りだしている。」(矢野綾)
「一度は真っ平らになったひび割れが、もう一度デコボコのあるひび割れに戻されてゆく。それはまるで、写真に切り取られて時間を止めたはずの壁やガードレールが、再び朽ちはじめるかのようである。」(鶴田悦子)
「眼に捉えられないものを捉えるキャメラでさえ捉えられないもの、それを追い求めるために作家は、違う世界から制御できない力を借りてくる。印画紙をサンドペーパーで削ることで、モノクロの世界に色をもたらす。デジタルにアナログをもたらすことで、意識に無意識を混入させる。それをさらに取り込んで、再び印画紙に焼き付ける。これまでの過程をもすべて取り込んで、再び写真が立ち現れる。作家の実験は、ピントが合わない境界を捉えようとする。捉えんとして写真を、がりがり、がりがり、掘り進む。」(小田昇平)
◆GALLERY Ami-Kanoko
福田十糸子展 「夏百歩」 7/16~7/28
松原正武展 「時の刻印 〔彫刻写真〕」7/16~7/28
作家の松原正武さん(左)と上倉庸敬さん(右)。参加者一人ひとりとハートフルに交わる上倉さんの司会が美事であった。
2012年7月24日火曜日
Chim↑Pom「LEVEL7 feat. 『明日の神話』」(2011年)
「ひっくりかえる展」にて(ワタリウム美術館)
1945年の広島・長崎の原爆、1954年の第五福竜丸事件をモチーフにした岡本太郎「明日の神話」(1968年/修復後、渋谷駅連絡通路に恒久設置)。
Chim↑Pomは右下のこの余白を、"被爆の過去と被爆の現在をつなぐための場所"と解釈し、
爆発した福島第一原発の絵を嵌め込んだ。
《明日の神話》は、広島・長崎・第五福竜丸という「被爆のクロニクル(年代記)」で構成されています。ただ岡本太郎はそれらをステレオタイプな原爆芸術のように悲惨に描くのではなく、核の凄まじさと人間の生命力を、「同様に爆発的なものとして」混在・対立させていて、善悪やメッセージを超えたエネルギーとして描きました。
2012年(ママ)、くしくも岡本太郎生誕100年という節目の年。皮肉にも第五福竜丸が被爆した太平洋、その沿岸の福島で、被爆の歴史は更新されてしまいました。「美術館は作品の墓場」とも言われますが、《明日の神話》はパブリックアートにこだわった岡本太郎の遺志に基づいて、紆余曲折の末に渋谷駅に来た「生きた芸術」です。それならば「明日の神話」を現在のものとして見なければならない。僕らは壁画の前でそんなことを考えながら、日本の特殊な歴史に思いをはせました。
(Chim↑Pom『芸術実行犯』(朝日出版社) より)
2012年(ママ)、くしくも岡本太郎生誕100年という節目の年。皮肉にも第五福竜丸が被爆した太平洋、その沿岸の福島で、被爆の歴史は更新されてしまいました。「美術館は作品の墓場」とも言われますが、《明日の神話》はパブリックアートにこだわった岡本太郎の遺志に基づいて、紆余曲折の末に渋谷駅に来た「生きた芸術」です。それならば「明日の神話」を現在のものとして見なければならない。僕らは壁画の前でそんなことを考えながら、日本の特殊な歴史に思いをはせました。
(Chim↑Pom『芸術実行犯』(朝日出版社) より)
2012年7月20日金曜日
P.B.シェリー「ジュリアンとマッダロー」(1818年)メモ
パーシー・シェリーの対話詩篇「ジュリアンとマッダロー」をようやく読み終えることができた。
この作品はトスカーナの山間の街バーニ・ディ・ルッカで暮らしていたシェリーが、1818年の8月、ベネチアに住むバイロンからの誘いを受け、彼のもとを一人で訪ねひと夏を対話と執筆のうちに過ごした、その時の経験を長詩にしたもの。
まったく性格も立場も異なる二人のロマン派詩人、シェリーとバイロンそれぞれを投影したジュリアン(聡明で慈愛に満ちた人物/シェリー)とマッダロー伯爵(完璧な天才であるが高慢な人物/バイロン)が、愛や美や真理について噛み合わない対話を繰り返すのだが、その埋まらない溝を橋渡す人物として一人の「狂人」が登場する。
この、恋人に裏切られ絶望の中で発狂した「狂人」のモデルは16世紀イタリアの詩人タッソーであるとされているが、この作品の背骨ともいえる「狂人」の200行あまりにおよぶ問わず語りの独白にはシェリー自身の思想が投影されていて興味深い。
この作品の語り手(一人称)は一貫してジュリアンであることを勘案すると、バイロンとの対話で感じた違和感や浮彫になった異質性への応答として書かれた作品なのだろう。この作品を目にしたバイロンの反応が気になるところだが、手元の資料では確認できるものがない。
序盤で挿入されるベネチアの街をめぐる叙景表現や抒情表現の美しさも素晴らしい。メアリ・シェリーの異母妹クレア・クレモントとバイロンとの間に出来た娘アレグラをモデルにした人物も登場するなど、伝記的な方面からの興味も尽きないが、創造への意志の力、ニヒリズム、崇高をめぐる美学の規準、といった現在につらなる美学的課題にも新鮮な刺激をもたらしてくれる作品である。もちろん、詩の文体研究においても学ぶところは大きい。
「最も不幸なる人びとは、
災禍により、涵養されて詩を生ずる。
彼らが、その詩において教える事は、彼ら自らが
苦しみの中に学びしものだ。」
’Most wretched men
are cradled into poetry by wrong:
They learn in suffering what they teach in song’
「狂人」の独白を聴いた二人は、彼と三人で大いに涙する。これは、その後マッダローが言った言葉である。
※「ジュリアンとマッダロー」の邦訳は高橋規矩訳『シェリー詩集』(1992,渓水社)にのみ所収。
シェリー
バイロン
2012年7月19日木曜日
岡田真希人 展「impatience and hopes」 於、イムラアートギャラリー(京都)
岡田真希人さんは、ロマン主義的美学の回復をご自身の仕事の目標として掲げている。
それは、啓蒙的理性、あるいは分析的理性には決して還元されえない内在的な価値を追求するという意味で、芸術が本来擁護すべきもっとも大切な価値への投企であるともいえよう。
空虚、闇、ほの暗さ、孤独、沈黙、無限、などをライトモチーフに、鉛筆画の上から透明な青い絵の具(ウルトラマリン)を塗ったこれらの作品群は、その大きな目標にいたるための方法として選ばれた、絵画としての純度を高める実践から生みだされた。
ところで、ネグリとハートは著書『〈帝国〉』において、モダニティ(近代性)には革命としてのモダニティと反動としてのモダニティという二つの相があり、産業革命以後人間を疎外してきたモダニティは後者であって前者ではないことに注意を促した(ポストモダニズムが二つのモダニティを腑分けできなかったことを批判する文脈で)。たえず反動が弁証法的運動のように覆い被さってこようと、誰かのために、あるいは見果てぬ夢のために何か新しいものを生みだそうとする力は革命的であるということを、近代性の始まりにおいて生じた出来事を例示しながら力説したのだ。
それはある種のロマン主義的な熱情と同質のものとみてさしつかえない。
薄暗い化学の実験室や航海といったモチーフを作家の意志のうちに読み解き、展開していく鍵はここにあるように思う。
そのような視点をもつことで、モダニティの再考という3.11以降われわれが突き付けられている課題ともアクチュアルにリンクするのではないか。
凪いだ海。まさに荒れんとする重い空を見詰めながら、小舟の上に一人立つ。
ART OSAKA2012での展示風景。
◆イムラアートギャラリー 6/9-7/21
2012年7月13日金曜日
薄雲をまとった二十三夜月
日本が近代化する以前には、仲間たちで飲食を共にしながら月の出を待ち、月を眺めながらお祈りをするという月待講(つきまちこう)という風習がありました。七夜、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜、など特定の月齢の夜にそれは行われ、なかでも二十三夜がもっとも盛大活発でした。二十三夜の月を拝むと全ての願い事が叶うという民間信仰もあったようです。
修験道では七夜待ちといって、十七夜に聖観音、十八夜に千手観音、十九夜に馬頭観音、二十夜に十一面観音、二十一夜に准テイ観音、二十二夜に如意輪観音、二十三夜に勢至菩薩を拝んでいたようです。因みに、勢至菩薩とは『無量寿経』『観無量寿経』などに、観世音菩薩と並んで出てくる阿弥陀如来の脇侍(わきじ/つまりはおとものこと)で、観世音菩薩が慈悲をもって人々を救済するのに対し、勢至菩薩は智慧をもって救済するといわれています。
2012年7月10日火曜日
GALLERY wks.10周年記念"wks.祭"平面作品展よりいくつか (大阪・西天満)
GALLERY wks.の10周年記念企画は無資格・無審査・無賞のアンデパンダン展!(いわゆるアンパンというやつ)。作品は即売されるため、売り切れ御免。
石山唯「BOMO」。モボ(モダンボーイの意)なら昭和レトロなスナックの名前にでもありそうだが、「ぼも」だとなぜか脱力する。
高木智広「ちゃぶ台のマリア」。昭和戦前期のものらしい美事なちゃぶ台に聖母(おねえちゃん)が神の子(カエル)を抱く姿をペイント。
下から眺めると、このちゃぶ台の古典的フォルムがよくわかる。松本哉が描くキャラが載っているのはこんな形のちゃぶ台だった。
岡田絵里「201273T」 。描き継がれるイメージと継ぎ足される支持体の連動が特徴。一枚の支持体を一つのコマに見立てると面白い。
往年のシュルレアリストたちによる連想絵画遊戯「甘美なる死骸」を思わせる不思議な作品。
西村有理「かたつむりえかきうた」。日本列島をめざして北上する台風に擬えられたかたつむり。かわいい!
上瀬留衣「なまこちゃんの夢」。 「なまこちゃん」とはコラージュの基底部で涙を流す、美青年のことか。
なまこちゃんの右目から零れる涙。よくみればこれは上瀬留衣さんの顔。
つかもとよしつぐ「山水」。 液体を使った映像パフォーマンスでおなじみ塚本佳紹さんは、絵の具を凝固させた作品を。だがしかし、これは山水である。
ヤマダヒデキ「大切な物は何か考えてみる 6」。 黒い液体のプールに半分沈んだバラの花。地が漆黒なので透明アクリル板は鏡になる。だから、花を眺めている己の姿と否応なく向き合うことに。大切なものとは・・・?と。福永宙さんの写真作品も写り込んでいる。
伊東恭子「3月の紫陽花」。 今、進行中の革命にも冠された紫陽花は6月を代表する花。だが、これは3月の紫陽花。なぜ3月なのだろうか? はなぶさは三つだと初見の印象では思っていたが、四つにも五つにもみえる。
木内貴志「関西電力ビル前で牛乳を飲む」。 表面が鉄骨で蔽われた関電ビルディング、"No nukes! I want to drink milk."(清志郎の歌詞の一節)、明治のパック牛乳を構図に収めた写真作品である。アンパンに一番合う飲み物は牛乳である!、と叫んだところで誰も異論を差し挟むまい。だがしかし、牛乳パックには「がんばれニッポン」「明治」「お■しい牛乳」の文字が・・・。
グンジョラクダさんの 作品の下、床の角にヘンなものが・・・。
なんだこりゃ?と思ったらロッテ「パイの実」の箱だった。中から妙なノイズが響いているような気がするのだが、気のせいか? (これは髙須健市さんの作品と判明。中にはiPhoneが仕込まれていた:追記) |
アンデパンダンIndependantsとはフランス語で「自主独立」を意味し、1884年にフランスで官設の美術展(サロン)に対抗して開かれた無資格・無審査・無賞の美術展が起源である。日本では1947年の日本アンデパンダン、1949年の読売アンデパンダンが毎年積み重ねられることで戦後美術における坩堝のような役割を果たし、出品する若者たちの間でアンデパンダン展はいつしか「アンパン」と称ばれるようになった。
無資格・無審査であるということは、そこで求められるのはただ創造と発表への情熱だけであり、それはすなわち無名の表現者にも広く門戸を開くということであった。大家の作品も、駆け出し作家の作品も、素人の趣味的作品も等しく並べられることで、カオスの中から新しいムーブメントが生まれる温床となったのだ。そこで生産されるのは、ここから何か新しいことが始まるのではないかという期待感であり、それは私たちが希望と呼んでいるものの別のあり方なのかもしれない。
それだけではない。ひとつひとつの作品を鑑賞する際、何をもって面白いとするか?何をもって良い作品とするか?という美学の規準が作品それぞれに異なるため、作品から作品へと目を移すとき、意識が規準としているものもまた移行する。
それは、美術であること、同時代であること、一流であること、などを条件付けている枠組み、すなわち美学的体制を揺さぶる潜勢力の秘められをも意味するのである。
ここにこそアンデパンダンであることの最大の意義がある、といっても過言ではない。
wks.祭はオーナーの片山さんによって壁ごとに趣向や雰囲気の異なる作品がグルーピングされているので、作品同士が互いに際立ち引き立つような並びとなっており、鑑賞という行為の驚きとよろこびを堪能できる展覧会である。
作家の営為と搬入時の偶然的要素、そして編集的センスが絶妙に絡み合っているのだろう。
【出 展 作 家】
鍵井保秀 / 尾柳佳枝 / 望月麗 / 中村由香/ 保田篤 / 中新井純子 /伊吹拓 / 西嶋みゆき / 中尾暢明 / 村田真紀 / m a c o m o / 安藤智 / 木内貴志 / 石山唯/ しまだそう / 中村協子 / フルタミチエ / 高木智広 / 金石千恵 / 赤土浩介 / 岡田絵里 / 天野萌 / t k 4 m / 西村有理 / ミヤザキミホ / 板垣亜矢/ 千光士誠 / グンジョラクダ /蛇目 /上瀬留衣 / つかもとよしつぐ / s a c c o / 上村亮太 / ハザマヨウイチ/ 田中加織 / 和田武信 / 谷口和正 / 小池芽英子 / 安藤吉準 / 越野潤 / 冬耳 / 佐藤有紀 / 田村仁美 / D A M A / 城戸みゆき / ヤマダヒデキ / 山岡敏明 / 福永宙 / 久保昌由 / 近藤寿美子 / 伊東恭子 / 荒木晋太郎 / 松井沙都子 / ムラギしマナヴ /鮫島ゆい / 照山淳也 / 明石真理恵 / 西嵜久美子/野寺摩子 / 関郁美/ タニカワアユ / 西本紀文 / 高須健市 / 片山和彦 / 以上6 4 名
(売れた順に余白ができるので、そこを埋めるべく新たな出展者がふえるかも!?)
◆ギャラリー wks. 7/5~7/28
※9月には立体作品展を、同じくアンパン形式で開催するとのこと。
2012年7月7日土曜日
三浦真琴 展「エニグマ」 於、此花メヂア(大阪・此花)
此花メヂアにアトリエを構える三浦真琴さんの個展「エニグマ」は、ガラス板を支持体に、リューター(電動切削工具)で文字を刻印することで製したオブジェを空間の各所に配したインスタレーションである。
ガラスに刻まれた文字は、消すことも修正することもできず、また判読すら困難である。ひらがなで綴られた言葉らしきものである、ということがわかるにすぎない。仮に、それが気に入らないという理由で叩き割ったとしても、文字の痕跡は残る。
ところで、「エニグマ」とは謎めいた言葉や不可解な事物を意味する語であるが、第二次大戦中にナチスドイツが採用していた暗号機にもその名称が付されていた。
ガラス板に文字を刻んでいると、もともと意味ある言葉だったものが次第に意味を失っていくという。その行為の中でオートマティスム(自動記述法)の色合いを濃くしていくのだろう。増殖していく細胞のように刻印された文字は、まるで流れる気のように平面上を踊っている。
それらはすでに言葉としての意味が溶解したただの文字列、あるいは文字ですらなくなったようにもみえるが、制作という行為の中で作家自身の意識に降りてきた〈超越者の暗号〉※のようでもある。
額縁にガラスを嵌め込んだこの作品は、こちら側からだと鏡になっているが、反対側からだと透けて見えるマジックミラーである。
ガラスの周囲にある枠は、窓を意味しているのだろう。
窓とは、こちらとあちらを結ぶ通路であると同時に、遮る壁でもあり、いずれの場合においても境界である。その平面上には、流れる気のように踊る文字列・・・
文字そのもの、あるいは文字によって表記された言葉というものも、それを眺めたり読んだりすることで、意識を別の次元へといざなう窓のようなものになる。
私たちは日常と非日常とを問わず、また物資的空間であるとサイバー空間であるとを問わず、夥しいまでの文字に囲まれて生きている。そこにあるのは選択し取り込むべき必要な情報ばかりではなく、またなんでもかんでも意味ある言葉として認識しているわけではない。
見たくもないのに目に飛び込んでくる広告、押しつけがましく送信され投函されるDMや迷惑メールもあれば、情報ですらないものだってあるだろう。
それらの多くは一方的なものである。電話やインターネットを使った通信にしても、他者と対面しての会話であっても、双方向のコミュニケーションに見えながら実際には片方向でしかない、といったことは往々にしてあることだ。あるいは、そもそも文字や言葉というものは意思の伝達不可能性を原罪的に内包している、ということにも思いはおよぶ。
立場の非対称性を作り出すマジックミラーを使ったこの作品は、そのようにさまざまな問題系へと思索の通路をつけてくれた。
三浦真琴さんの個展「エニグマ」は、私たちの意識や身体を丸ごと包摂しているテキストスケープを象徴化したものであると、ひとまずは理解することにしよう。
そこから移行していく意識は、たとえよろめきながらであっても、時空に対して無限に開かれている。
文字によって綴られた書物の中では、あらゆるものがあらゆるものと接続し、連絡する可能性が開かれているように・・・
◆此花メヂア 7/6-7/15
※〈超越者の暗号〉・・・・・・哲学者、カール・ヤスパース(1883-1969)が創出した概念。超越者とは、挫折、病、疲労、といった人間にとっての限界状況などにおいて、実存の前にたまさか現れることがあるものだが、それが存在している(はずだ)ということを覚知できるのみで対象的に把握することがけっしてできないもの。学者にとっては真理であり、宗教者や神秘家にとっては神や精霊のようなものと考えていい。とはいえ、超越者は〈暗号〉という形式をとって実存の前に現れるにすぎない。
つまり、〈超越者の暗号〉とは人が覚知することのある超越的ななにものかを形而上学的に把握するための媒介として創出された概念なのである。具体例を挙げるなら、〈暗号〉とは、詩人や芸術家にとっての創造的インスピレーションであり、宗教家にとっての啓示であると理解して差し支えないだろう。
ヤスパースはこれによって無神論と有神論との間に対話の前提となる橋を架け、オカルティズムに陥ることなくインスピレーションの問題を考える糸口を提供してくれたのである。
ガラスに刻まれた文字は、消すことも修正することもできず、また判読すら困難である。ひらがなで綴られた言葉らしきものである、ということがわかるにすぎない。仮に、それが気に入らないという理由で叩き割ったとしても、文字の痕跡は残る。
ところで、「エニグマ」とは謎めいた言葉や不可解な事物を意味する語であるが、第二次大戦中にナチスドイツが採用していた暗号機にもその名称が付されていた。
ガラス板に文字を刻んでいると、もともと意味ある言葉だったものが次第に意味を失っていくという。その行為の中でオートマティスム(自動記述法)の色合いを濃くしていくのだろう。増殖していく細胞のように刻印された文字は、まるで流れる気のように平面上を踊っている。
それらはすでに言葉としての意味が溶解したただの文字列、あるいは文字ですらなくなったようにもみえるが、制作という行為の中で作家自身の意識に降りてきた〈超越者の暗号〉※のようでもある。
額縁にガラスを嵌め込んだこの作品は、こちら側からだと鏡になっているが、反対側からだと透けて見えるマジックミラーである。
ガラスの周囲にある枠は、窓を意味しているのだろう。
文字そのもの、あるいは文字によって表記された言葉というものも、それを眺めたり読んだりすることで、意識を別の次元へといざなう窓のようなものになる。
私たちは日常と非日常とを問わず、また物資的空間であるとサイバー空間であるとを問わず、夥しいまでの文字に囲まれて生きている。そこにあるのは選択し取り込むべき必要な情報ばかりではなく、またなんでもかんでも意味ある言葉として認識しているわけではない。
見たくもないのに目に飛び込んでくる広告、押しつけがましく送信され投函されるDMや迷惑メールもあれば、情報ですらないものだってあるだろう。
それらの多くは一方的なものである。電話やインターネットを使った通信にしても、他者と対面しての会話であっても、双方向のコミュニケーションに見えながら実際には片方向でしかない、といったことは往々にしてあることだ。あるいは、そもそも文字や言葉というものは意思の伝達不可能性を原罪的に内包している、ということにも思いはおよぶ。
立場の非対称性を作り出すマジックミラーを使ったこの作品は、そのようにさまざまな問題系へと思索の通路をつけてくれた。
三浦真琴さんの個展「エニグマ」は、私たちの意識や身体を丸ごと包摂しているテキストスケープを象徴化したものであると、ひとまずは理解することにしよう。
そこから移行していく意識は、たとえよろめきながらであっても、時空に対して無限に開かれている。
文字によって綴られた書物の中では、あらゆるものがあらゆるものと接続し、連絡する可能性が開かれているように・・・
アトリエの作業台
◆此花メヂア 7/6-7/15
※〈超越者の暗号〉・・・・・・哲学者、カール・ヤスパース(1883-1969)が創出した概念。超越者とは、挫折、病、疲労、といった人間にとっての限界状況などにおいて、実存の前にたまさか現れることがあるものだが、それが存在している(はずだ)ということを覚知できるのみで対象的に把握することがけっしてできないもの。学者にとっては真理であり、宗教者や神秘家にとっては神や精霊のようなものと考えていい。とはいえ、超越者は〈暗号〉という形式をとって実存の前に現れるにすぎない。
つまり、〈超越者の暗号〉とは人が覚知することのある超越的ななにものかを形而上学的に把握するための媒介として創出された概念なのである。具体例を挙げるなら、〈暗号〉とは、詩人や芸術家にとっての創造的インスピレーションであり、宗教家にとっての啓示であると理解して差し支えないだろう。
ヤスパースはこれによって無神論と有神論との間に対話の前提となる橋を架け、オカルティズムに陥ることなくインスピレーションの問題を考える糸口を提供してくれたのである。
2012年7月6日金曜日
此花メヂアの外観 (大阪市此花区梅香1丁目)
四軒並んだ建物の壁をぶち抜いてくっつけた此花メヂアは、ギャラリー、アトリエ、住居として此花界隈で活動するアーティストたちの拠点となっている。
中は迷路のように入り組んでいるので、もしも何か事情があって逃亡生活を強いられている人が転がり込んでくるようなことがあったら、追っ手を振り切れるかも(ウソ)。
◆此花メヂアHP → http://medias.sitemix.jp/
現在、此花メヂアでは三浦真琴さんの個展「エニグマ」を開催中。
2012年7月1日日曜日
第1回読売アンデパンダン展(1949年)ステイトメント
わが美術界現在の状況は各派団体の乱立、展覧会氾濫の多彩な裏には依然として封建制、情実因縁、功利、政策等がいり乱れておよそ民主化とは縁遠い複雑、微妙の府といわれているが、これを打開粛正して最も高い芸術的創造の清新の気を吹きこむには一切の行きがかりを捨てて、完全な自由競争の形による最も民主的な展覧会方式とされているアンデパンダン展をおいて他にはありません。専門たると非専門たるとを問わず、また有名、無名を問わず全ての人に美術の門を無制限に開放し、これによってはじめて制作と鑑賞の自由が得られるものであります。
この故にこそ本社があらゆる困難と犠牲を忍び、わが国最初のこの展覧会を開催しもって美術革命を敢行した次第で、ここには如何なる党派も因縁も情実、垣根もなく、あるものはただ実力と創造であり、無制限に発揮される最も高い芸術への情熱であります。本社はこの企てが真の民主化を望む皆さんの共感を得ることを確信するものであります。
(テキストは赤瀬川原平『反芸術アンパン』より。但し通用字体に変換)
この故にこそ本社があらゆる困難と犠牲を忍び、わが国最初のこの展覧会を開催しもって美術革命を敢行した次第で、ここには如何なる党派も因縁も情実、垣根もなく、あるものはただ実力と創造であり、無制限に発揮される最も高い芸術への情熱であります。本社はこの企てが真の民主化を望む皆さんの共感を得ることを確信するものであります。
(テキストは赤瀬川原平『反芸術アンパン』より。但し通用字体に変換)
5周年記念「亜蛮人パンダン展」より、気になった作品をいくつか紹介。 於、アートスペース亜蛮人(大阪・日本橋4丁目)
加世田悠佑"Escape me alone"。鋳鉄で造形された作家自身の似姿は、まるで"死に至る病"に蝕まれているかのように表情は重い。あるいは生ける屍のようにもみえる。だが、足取りは重くとも、確かに一歩を踏み出している。
そして体躯の右側から生えているのは枯れ枝ではない。枝の先端は鹿の袋角のようにまるく膨らみ、これがまさに芽吹かんとする生命の力を秘めた枝であることがみてとれる。
かけがえのない瞬間の記憶、その表徴として脳裏に焼き付けられた表情。それらにドライフラワーを添え、大切なものとして標本のように箱に収めた谷口朋栄「感情採集」。
一つ一つの箱には「世津無(せつない)」(下段右)、「夕打(ゆううつ)」(上段中央)、「糸思意(いとしい)」(下段左)といったタイトルが付されており、そこからは描かれた表情への、あるシニカルな眼差しをも感じさせる。
「糸思意」。箱を開くと、扉の蝶番と留め具にはたかる蟻が描かれている。
エロティックアートばかりが陳列された一角でひときわ異彩を放っていた、タニカワアユ「私のもの」。女性二人のまぐわいを描いた油彩画であるが、表面に塗布されたクリーム状の物体が生々しい。みての通り、これは幸せなまぐわいではない。自然な肌色をした「私」は恍惚とした表情で滴る白いものを口に入れようとするが、それは青白い肌をした女性への満たされない所有欲を暗示しているようだ。「私」の左手の小指はデフォルメされてはいるものの、男根を象っている。
絵の向こう側にあるストーリーを、物語る力に惹きつけられた。
凶悪なビジュアルの福山翔太「nikubenki」。ぶらさげられたコンドームの中の白い液体はどうやら本物ではなさそう。批評的にはノーコメントとさせていただくが、このようにギョッと思わせる作品と出会えるのはアンデパンダン展の醍醐味である。
1階がホワイトキューブ、2階がブラックキューブ、といったスペースの特性を活かした展示には、カオスの中にあっても鑑賞という行為を通じて別のコスモスの現前を手助けしてくれるような、優れた編集的センスが感じられた。
このアンデパンダン展には73名の作家が集っている。
このアンデパンダン展には73名の作家が集っている。
◆アートスペース亜蛮人(あばんど) 6/22-7/3
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