2018年3月9日金曜日

京谷裕彰「戦前期日本のシュルレアリスム、モダニズム、その表象の問題」(『詩と思想』2018年3月号「【特集】戦時下のアジア詩人―風車詩社/尹東柱」)


ホアン・ヤーリー監督『日曜日の散歩者』、イ・ジュニク監督『空と風と星の詩人 尹東柱の生涯』、二つの映画の上映にあわせた特集に、私は「戦前期日本のシュルレアリスム、モダニズム、その表象の問題」と題して14枚書きました。
台湾の若き詩人たちが手にした日本のシュルレアリスム詩誌、その運動史観をめぐっては、「日本のシュルレアリスムは瀧口修造以外みんなダメだった」的な評価がなんとなく、しかし根強くあるわけですが、戦後シュルレアリスムの普及に大きな功績のあった大岡信、飯島耕一の所論とその影響力の問題を指摘しております(もちろん彼ら二人だけの問題ではありませんし、瀧口が特別な存在だったのはゆるぎないのですが)。
これは1956~1958年に大岡や飯島も参加していた「シュウルレアリスム研究会」で共有された認識であること、この研究会は挫折してしまった戦前のモダニズム文学全般、とくにシュルレアリスム文学を検証することを通じて自分たちの世代の思想を練り上げるという明確な目的、その(歴史的)文脈のなかで共有されたものでした。
ですが今、戦前期日本のシュルレアリスムについて考え、そして実践する際、大岡、飯島の古いシュルレアリスム観から脱却して鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』が重視する〈痙攣〉(ブルトンの言葉)にシフトするならば、〈痙攣〉をキーワードにするならば、従来とはぜんぜんちがう風景がみえてくるという論です。日本の詩人たちも画家たちも台湾の詩人たちも、みんな投げられたものに〈痙攣〉したのです。
もう一点は、これもなんとなく使われている「モダニズム」という曖昧な言葉について、〈革新としてのモダニティ〉と〈反動としてのモダニティ〉という、近代性の二つの位相を、その都度その都度区分しましょう、という話。これはネグリ/ハート『〈帝国〉』第2部第1章の理論整理に基づいております。
モダニズム文学の、その潜勢力を個別に、的確に評価するための指標です。


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特集:戦時下のアジア詩人―風車詩社/尹東柱

【巻頭言】
原子修「今問われているもの」
【評論】
大東和重「台南の詩人たち―植民地の地方都市で詩を作る」
陳允元「植民地台湾におけるモダニズム詩運動 ―忘れられた風車詩社詩人たち」
松浦恆雄「台湾 レスプリ・ヌーボー の詩人 水蔭萍」
八木幹夫「西脇順三郎の詩と台湾詩人たち」
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岡本勝人「一九二〇年代の日本の文学―横断する遊歩性―」
京谷裕彰「戦前期日本のシュルレアリスム、モダニズム、その表象の問題」
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池田功「日本統治期の韓国文学管見―韓龍雲・李陸史・尹東柱を中心に―」
河津聖恵「映画『空と風と星の詩人』が教えてくれるもの」
愛沢革「尹東柱と「戦場の父」たちを訪ねる旅―映画「ドンジュ」にふれながら」
中村純「一編の詩で在り続けること―尹東柱が最後に暮らした街から―」
【映画情報】
映画『空と風と星の詩人―尹東柱の生涯』
映画『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』





◆土曜美術社出版販売 2018年3月1日発行 1300円+税 


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