巨大な藪蚊が大量にいると聞いていたので、虫除けスプレーを手や首や顔にべっとりと塗ってどうにかしのいだのですが、ここの藪蚊は人間の生き血だけでこれほどまでに繁栄しているのか、他に何か食しているのか、気になるところです。蚊の他にもクモ、でかい蟻、バッタ、かたつむり、トカゲ、虻、スズメバチなどいろんな生き物がいて楽しい場所でした。
西武多摩川線、多磨駅のホーム。
多磨駅前。「日本の古本屋」サイトで何度か買ったことのあるにしがはら書店との思いがけない出会い。
多磨霊園の正門。正門を入ってまっすぐ北にのびる大通りが名誉墓域通りとよばれる、歴史上の著名な権力者、名望家たちの墓所が並ぶ通りです。
案内板。右が北。左下が正門。そこから道路が放射状に伸びています。
名誉墓域通りにある西園寺公望の墓(8区1種1側)。お隣には高橋是清の墓がありました。西園寺といえば、若い頃、中江兆民と『東洋自由新聞』というリベラル紙を主宰したり、雨声会(うせいかい)という文士たちを招いての懇話会を催すなど、風流宰相と呼ばれた人で、近代史上ユニークな位置にいますが、これからもまだまだ再評価の余地はありそうです。雨声会には森鴎外、国木田独歩、島崎藤村、永井荷風、田山花袋らが顔を出していました。
詩人・村野四郎のお墓(8区1種14側)。
20世紀最大のスパイと呼ばれたリヒャルト・ゾルゲと愛人・石井花子さんのお墓(17区1種21側)。花子さんは、処刑された後行方が分からなくなっていたゾルゲさんの遺骨を雑司ヶ谷墓地から探し出し、ここに改葬しました。ゾルゲさんの同志でアメリカ共産党員だった画家・宮城与徳さんの遺骨もここに分骨されているそうです。今でも訪れる人が少なくないことを窺わせる、とてもきれいなお墓でした。
男女二体の人形が雨よけのビニール袋にくるまれて供えられていました(画面中央下)。
墓誌「ゾルゲとその同志たち」。
ゾルゲさんの略年譜。
岡本太郎さん敏子さん、かの子さん一平さんの墓域(16区1種17側)。とてもゆかいな雰囲気でした。
太郎さん敏子さんのお墓。
左がかの子さん、右が一平さん。
川端康成が太郎さんの著書『母の手紙』に寄せた序文からの引用が刻まれた碑文。
「岡本一平、かの子、太郎の一家は、私にはなつかしい家族であるが、また日本では全くたぐい稀な家族であった。私は三人をひとりびとりとして尊敬した以上に、三人を一つの家族として尊敬した。この家族のありように私はしばしば感動し、時には讃仰した。
一平氏はかの子氏を聖観音とも見たが、そうするとこの一家は聖家族でもあろうか。あるいはそうであろうと私は思っている。家族というもの、夫婦親子という結びつきの生きようについて考える時、私はいつも必ず岡本一家を一つの手本として、一方に置く。
この三人は日本人の家族としてはまことに珍しく、お互いを高く生かし合いながら、お互いが高く生きた。深く豊かに愛し敬い合って、三人がそれぞれ成長した。
古い家族制度がこわれ、人々が家での生きように惑っている今日、岡本一家の記録は殊に尊い。この大肯定の泉は世を温めるであろう。」
岡本一家については椹木野衣による岡本太郎論、『黒い太陽と赤いカニ』(中央公論新社)に詳しいです。
北原白秋のお墓(10区1種2側)。何を隠そう、白秋は犀星とならんでぼくが詩を書くようになったきっかけを作ってくれた詩人なのです。
有島武郎夫妻の墓誌(10区1種3側)。有島さんは大正アナキズムのパトロンとしても有名ですが、心中する直前、雑誌を出すため無心に訪れた若い詩人たちに惜しまずお金と絵画を出したエピソードが印象にのこっています。その雑誌とは『赤と黒』、岡本潤、萩原恭次郎、小野十三郎らが同人でした。日本近代文学史上、有島さんは別格だと思っております。
三島由紀夫、本名・平岡公威(ひらおかきみたけ)が眠るお墓(10区1種14側)。
尾崎秀実(おざきほつみ)夫妻のお墓(10区1種13側)。
詩人・石原吉郎が眠る信濃町教会会員墓(11区1種16側)。
石原吉郎の墓誌。
右、与謝野晶子、左、与謝野鉄幹(11区1種10側)。
詩人・北川冬彦(本名・田畔忠彦)の墓(23区2種8側)。
詩人・小熊秀雄のお墓。多磨霊園の一番西の奥まったところにありました(24区1種68側)。
エノコログサとドクダミが生い茂っていましたが、最近人が訪れた痕跡がありました。ぐい呑みが伏せてあったので、誰かここで小熊さんの霊と酒を酌み交わしていたのでしょう。
線香代わりにタバコの一本でもお供えすればよかったと思いながら、何も手持ちが無いことに後悔・・・。しかたがないのでミネラルウォーターを墓碑にかけて、お経代わりに『小熊秀雄詩集』(岩波文庫)から詩を何編か読ませていただきました。
「孤独の超特急」
触ってくれるな、
さわってくれるな、
静かにしておいてくれ、
この世界一脆い
私という器物に、
批評もいらなければ
親切な介添えもいらない、
やさしい忠告も
元気な扇動も
すべてがいらない
のがれることのできない
夜がやってきたとき
私は寝なければならないから、
そこまで私の夢を
よごしにやって来てくれるな、
友よ、
ああ、なんという人なつこい
世界に住んでいながら、
君も僕も仲たがいをしたがるのだろう、
永遠につきそうもない
あらそいの中に
愛と憎しみの
ゴッタ返しの中に
唾を吐き吐き
人生の旅は
苦々しい路連れです、
生きることが
こんなに貧しく
こんなに忙しいこととは
お腹の中の
私は想像もしなかったです、
友よ、
産れてきてみれば斯くの通りです、
ただ精神のウブ毛が
僕も君もまだとれていない、
子供のように
愛すべき正義をもっている、
精神は純朴であれと叫び
生活は不純であれと叫ぶ、
私は混線してますます
感情の赤いスパークを発す、
階級闘争の
君の閑日月の
日記を見たいものだ、
私の閑日月は
焦燥と苦悶の焔で走る、
孤独の超特急だ、
帰ることのできない、
単線にのっている
もろい素焼きの
ボイラーは破裂しそうだ。
=========================
多磨霊園は最初の公立霊園なのですが現在の永代供養料は325万円、申し込んでも何十倍だかの高倍率なので今やお金をもっていても狭き門。墓石代などお墓の造営費用を計算すると、貧乏人には縁のない場所ですね。
人は死ぬとだれもが骨になって、世俗的な身分など関係ないはずなのに、お墓を構えるにはただならぬ額のお金が必要で、霊園も身分制がそのまま明示されているようなお墓の配置であることを思うと、結局、お墓とは生きている人のためにあるのだろうか・・・、などということを思いました。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。