2011年8月11日木曜日

『詩と思想』8月号詩誌評(平川綾真智氏)

平川綾真智氏執筆の『詩と思想』(土曜美術社出版販売)8月号の詩誌評で『紫陽』23号(2011.1刊)に掲載した竹村正人(うんこ詩人)の詩三篇が取り上げられているのだが、この詩誌評が凄い。何が凄いかというと、「誌は臀淫された。補選挙される家畜の腸を翻訳していく空罐として。朝餉へ喀血し始める猟銃で凌いだジェネリックとして」という書き出しで始まり、そのまま全編こんな調子で貫かれていくのかと思いきや、詩誌・詩作品を取り上げる段ではこんなレベルを遙かに凌ぐテンションで、ほとんど意味不明とも言えるぶっ飛び具合になるのだ。ここでは詩誌評といいながら漢語を独自の用法で駆使した長篇詩のような体裁がとられている。これを、文体への尋常ならざるこだわりの強さによるものだと簡単に納得してはいけない。そこからは、批評の言語が否応なしにまとわりつかせる“視座の超越性”への透徹した批判精神とゆたかな諧謔精神が窺えるのだ。批評言語の不可能性、という問題を前にしてのある種の実験として、この詩誌評を遊んでいるのだろう。


僕も書架に海賊版(台湾版)『大漢和辞典』13冊を備え、パソコンには梵字・甲骨文字・西夏文字まで収録する高額な外字ソフト「今昔文字鏡」をインストールする(正規ユーザーである)相当な漢語・漢字マニアなのだが、平川氏のこの言語感覚には本当に恐れ入った。

そんなゴチゴチの文章の中に竹村の「恋は/下痢からはじまる/からつらい」「ちんこは/まんこではない」といった掌詩が三篇、全文引用されているのだから、なかなかに笑える。

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