2010年11月23日火曜日

T・S・エリオット『荒地』(岩崎宗治訳,岩波文庫)

〈非現実の都市〉
冬の夜明けの褐色の霧の下
ロンドン・ブリッジを群衆が流れていった。たくさんの人、
死に神にやられた人がこんなにもたくさんいたなんて。
短いため息が、間をおいて吐き出され、
どの男もみんなうつむいて歩いていた。
・・・
(岩崎訳『荒地』60-65行…もっともお気に入りの一節)

20世紀モダニズム詩の古典、T・S・エリオットの『荒地 The Waste Land』といえば2003年に『紫陽』を創刊した頃に鍵谷幸信氏や深瀬基寛氏の訳でよく読んだものですが、この度エンプソンの詩論『曖昧の七つの型』の翻訳などで知られる岩崎宗治氏による新訳が岩波文庫から出ました。
以前から『荒地』に入手しやすい版がないことを嘆いていたので、こなれた訳文に膨大な訳註と解説が付され、引用と喩と象徴によって意味の重層性を極限にまで突き詰められたテキストを鑑賞する上で最適な文庫版が出たことは朗報です。

この『荒地』をめぐる僕にとっての最大の関心事は、エズラ・パウンドによる大幅な添削が入る以前の草稿に、エリオットの最初の妻・ヴィヴィアンの影響がどのくらいあるのか、つまりヴィヴィアンはエリオットのミューズとして日常的に夫婦間の詩的交感を続けていたわけですが、このあたりのテキストクリティークはどうなっているのか、ということでした。エリオットの全作品の中でも『荒地』だけが突出しているのは不自然だと思っていたので、そのオリジナリティについてはかなり疑問視していたのでした。案の定、本書の解説によると実際にヴィヴィアンの筆が何カ所も入っていたことがわかりますが、草稿にも残らないような精神的な影響関係はかなりのレベルに達しているものと推察されます(ただアカデミックな方法による実証研究ではもう限界にきているので、それ以上のことは作家がなすべき仕事でしょう※)。そこから、『荒地』がエリオット個人の業績であるというよりは、ヴィヴィアンやパウンドとの交わりのなかで成立した作品であったということの意義を肯定的に捉え、読み直しを図るための土台が提供されたということの意義を評価したいと思います。

しかし、今エリオットを読む場合、注意すべき点がいくつもあります。
まず一つ目に思いつくのは批評家としてのエリオットが、それまで支配的だった主観的な印象批評を排したまではよかったものの、それに対するに詩人が持つべきは「伝統」への帰属や「歴史的感覚」であるとし、自らをヨーロッパ文学の正統な継承者であると自負する傲慢さ、それゆえの保守的で硬直した形而上学への回帰が窺えること。それは、ニーチェによって神の死が宣告された(西洋形而上学の破綻)後、オルタナティブなというニュアンスではない形而上学を追求しようとしたその思想が、本来彼が批判しようとしたはずの、文学が擁護すべき価値とは対極のものを引き入れてしまっているという意味でです。
もう一つは、ミューズであったはずの最初の妻ヴィヴィアンを、そのエキセントリシティゆえに冷遇する凡庸な夫として、また自らの名声に傷がつくことを恐れて遺稿・草稿群を非公開にした小心者として、そしてプチブル的リベラリストサークル「ブルームズベリー・グループ」のメンバーであり自らの所属階級を脅かす思想の持ち主であるロマン派の詩人、わけても存在そのものがラディカルだったシェリーを感情的とも言える執拗さで攻撃した権威主義者としてのエリオットの凡庸さ(シェリー批判というか非難からは、判断力批判が不徹底で批評理論としても破綻していることがわかる)。
以上、批評理論から窺える思想の限界、そして凡骨漢としてのエリオットの、その卑小なパーソナリティに対するラディカルな批判を経た上での肯定、という手続きがなければ、今さらいかなる再評価も、また新たな読みの可能性も開かれないのではないかと思うのです。

とはいえ、求めやすい文庫版が出たことの意義はいくら強調しても強調しすぎることはないでしょう。


◆T・S・エリオット『荒地』(岩崎宗治訳,2010年8月刊,岩波文庫,¥840+税)

※エリオットとヴィヴィアンの関係については、マイケル・ヘイスティングス『トム&ヴィヴ ~詩人の妻』(山形和美訳,彩流社)があります(←これを原作にした映画も面白い! もう何年も前、当時の奈良テレビ社長自らがナビゲーターを務める深夜映画の名物番組「ラビリンス・シアター」で見ました)。

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