2012年11月14日水曜日

「記憶」をゆり動かす「いろ」 ~山中俊広キュレーション (HANARART2012/郡山城下町・旧川本邸)

その建物は、郡山城下町、洞泉寺町の一角にある。

1924年(大正13)に遊廓として建てられた旧川本邸のファサード。格子の向こうはいつもと趣が違い、一階には緑の柱(この写真には写っていない)、二階には白い柱、三階には赤い柱が縦に並ぶのが見える(中島麦「BEYOND ~コチラとムコウ~」)。


訪問者を玄関口で迎えるのは野田万里子「Salty pattern」
妻訪い婚が一般的だった時代、動物が塩を舐める習性を利用して、牛車に乗る男性を、待つ女性が門口に塩を盛ったという故事に基づく作品。

一階と二階とを吹きぬける中庭に繞らされた薄い色布は加賀城健「刹那」


陽差しや電灯といった光の加減、風の強弱、雨による湿り、といった天候や時間による印象の移ろいに触れることで、人や物や場との出会いが、つねに一期一会であることを心に喚び醒ます。

夜の佇まいを目にすると、言葉による表象がすべて失効してしまいそうな気になる。
加賀城さんは、この場所を祝福された場所にしたい、という思いで制作に当たったそうだ。




二階格子窓のきわに並ぶ野田万里子「Locked them in the glass」。色水-ひとつとして同じ色はない-が密封された瓶の底には、魚の鱗が数片沈殿している。
水の中でしか生きられない魚と、廓(くるわ)の中でしか生きることを許されない遊女とが重ねられ、格子の外を眺めるように佇む。






格子窓のある客間には、岡本啓「FRAME(借景)」
三脚に据えられた古い一眼レフカメラにはレンズがなく、ミラーには絵が映り込んでいる。これは薬剤を直接落として描画され、現像されたポジフィルムがペンタプリズムのスクリーン部分に仕込まれたものである。このカメラは写真を収めるフレームであり、外部の風景を借りることで作品が成立する。
それが格子窓沿いに四部屋並ぶ客間の、南側二部屋に一台ずつある。

レンズ側から見た風景。

これはファインダー側から見た風景。
記憶や記録の喩としての写真を内包した岡本さんのカメラは、見る側と見られる側、その境界に設えられ、立場の主客関係など容易に反転しうることを鑑賞者に語りかける。
遊女と飄客、それぞれの眼差しに映る世界の違い、にまで想像は及ぶ。

前谷康太郎「parallel」。色や明度が微妙に変化する、太陽光を撮影した映像インスタレーション。
一枚の壁に、二つの隣り合う部屋のそれぞれから、1分20秒でループする同じ映像が投影されるが、二つの時間はずらされている。

遊女の生活時間を象徴する太陽の光は、薄壁を挟んで対になっている。
同じ時代を生きていながらも、隣り合って暮らしながらも、引き離された人同士は決して同じ時間を生きてはいない、ということを表しているようで切ない。

二つの部屋にまたがる前谷作品と、同じく二つの部屋にまたがる岡本作品、それぞれに裏と表が対になった二人の作家の作品が、さらに対をなしている。この階層性が想起させるもののゆたかさ・・・。
かつて遊女たちが日々を営んだ部屋に彼らの作品が置かれることで、喚び醒まされ、揺り動かされるもの・・・。

まったく異なる場所、異なる動機で制作された作品にも、新たな可能性が、つねに開かれていることを知った。



巨大な印画紙に直接薬剤を塗布して描画した、岡本啓「PHOTOGRAPHIC MEMORY」。客間の奥から大階段を臨む。印画紙に浮かんだ形象が人の似姿を思わせるのは、おそらく錯覚ではなかろう。

現在の色を発する岡本作品の脇に、褪せた過去の色が対照的に並ぶ。これらは旧川本邸に残されたモノたちである。

炊事場の吹き抜けに面し、南からの明るい光がさす髪結場に据えられた中島麦「旧川本邸~光の中の影」

厚く、白く塗り込められたキャンバスの側面には、鮮やかなグラデーションを伴う赤の滴りがある。

それとは対照的に、陽の射す窓のない奥の客間には生々しくも鮮やかな、「旧川本邸~影の中の光」
速い筆致で描かれたマーブル模様の上を、ゆっくりと塗り込められた、無数に蠢めく濃いピンクの塊が、光源に向かってひしめき合う。

浮かされた絵の真上にある電灯が、側面と畳に影をつくりだす。

この建物がかつて遊廓であったということ。であるがゆえに、他にはないあり方で蓄積された歴史や物語には、ここだけにしかない陰と陽が湛えられている。そのような場所に足を踏み入れるとき、誰もが先入主としての"色"をつけてみてしまう。多かれ少なかれ。
だからこそ、光と影を主題とするにとどめたのだと、麦さんは云う。

麦さんの二枚の絵は、部屋に足を踏み入れるか、そっと覗くだけにするか、いずれにしても躊躇いを催す距離にある。この距離感が醸し出す詩情の妙・・・。

野田万里子「Floating girl 浮遊する少女」
コップからあふれ出し、浴室に滞留する小片。これは大正時代から現代までの女性の髪型を象ったもので、その数は2000枚以上におよぶ。
モチーフは野田さんが幼少時から習慣的に描き続けてきた無数の落書きであり、落書きである以上は捨てられるのが常。とはいえ、それは顔なのだから、移入された感情は無情へとかわらざるをえない。その否応なさ・・・。
行き場をなくした落書きたちと、行き場をなくした女性たちとが、ここにおいて重なりをみせる。

出展作家中、唯一の女性である野田さんの作品は全て明確なコンセプトの上にあるが、その中でも浴室にあるこの作品が最も具象的である。
だが視覚が対象に、意識が空間に馴染むまでは、イメージが具象性を帯びることはない。それには少しの時間を必要とする。

前谷康太郎「a light of past」。 ・・・・・・・・・・・・。


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具象による剥き出しのイメージ、あるいは直示的なイメージを極力排除し、抽象~準抽象によって感性的なものに働きかけることを、山中さんはキュレーションの方法として堅持している。そのおくゆかしさは、遊廓という、〈抑圧〉と〈解放〉、様々な特殊な記憶が綯い交ぜになり堆積し、放置された場において、そのまま隠喩的効果をも発揮しているように思える。
その効果もあってか、遊廓という建築への関心だけで訪れた人に対しても、感性を襲うような僭越さを露わにすることはない。そればかりか、作品の多くは観覧の動線から数歩踏み込んだところに置かれているため、ただ彩られた風景として印象を残すのみである。だが、さりげなく情緒を喚起するにすぎないとしても、その印象は確かなかたちで、旅の想い出を代表する風景として心に焼き付けられることだろう。
作品それぞれを芸術として見る眼差しがあっても、その意味が明瞭化するにはそれなりの時間を要するほどである。それでも、ここに足を踏み入れた人なら誰でも芸術の楽しみを享受できるのだ。存分に。

ここで我々は、そもそも地域型アートプロジェクトにおいて展示作品を長時間じっくり鑑賞することを自明の前提にするのは、作り手にとっても受け手にとっても、難しいものがあるということに向き合わねばならない。
時間的な制約に加え、歴史を刻んだ町や建物では複数の位相の異なる美学的要素が絡まり合っている上に、必ずしも芸術に造詣がある人が見るわけではないからだ。
少し見ただけで、あるいは空間に足を踏み入れただけで心や感覚に瞬間的にでも何か擦過を残すものでなければ、じっくり鑑賞するという次のステップにはなかなか移りにくいもの。逆に、これさえあればその場でじっくり鑑賞できなくても、後から振り返り反芻することが容易になる。
この、心や感覚に擦過を残すものこそハイデガーが『芸術作品の根源』でいうところの〈衝撃〉という概念に当たるのだが、ここに展示された作品にはどれも〈衝撃〉の源泉があり、五人の作家は皆、山中さんの方法に応える力量を備えた作家である。

その一方、山中さんたちが実践した美学については、いろいろな意見もあろう。
たとえば、芸術とはスペクタクルである、という美学を公準と考える者にとっては主張が弱く感じられるかもしれないし、ハイデガーのいう〈衝撃〉を、文字通りのスペクタクル的衝撃(他者の感性に視覚を通じて覆い被さる衝撃/他者の感性を圧倒する崇高)として解釈する向きもあるだろう。もちろん、スペクタクルそれ自体が制作の方法として有効になる類の作品を頭ごなしに否定するつもりはない。本来多様である美学の規準は、視点や立場が変われば、趣味の好悪や美醜といった価値判断もまたそれに応じて変化するのだから。
しかしスペクタクル的衝撃は、ときに暴力にもなりうる危うさを抱えていることに、注意を怠ってはならない。かかる美学が体制化され、感性の抑圧がそのまま人間性の抑圧へと繋がった、あるいは美学が他者の抑圧に動員された痛ましい事例を、我々は歴史を通じて学んではこなかったか。

旧川本邸での、山中さんと五人の作家たちによる展示からは、スペクタクルによって感性を従属化するイメージの暴力への、しずかな、しかしながら勁い批評精神が窺えた。


奈良・町家の芸術祭HANARART2012
「記憶」をゆり動かす「いろ」  11/1~11/11 

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