2013年12月7日土曜日

野田万里子展「HOPE」 於、TEZUKAYAMA GALLERY(大阪・南堀江) 

野田さんが制作という営みの外側で日常的に考えていることと、制作の内側で考えていること、そして出来上がる作品との関係がどうなっているのか、野田作品に接する時いつも気になっていた。

静謐な佇まいとモチーフを稠密に反復するスタイルは、視覚的な印象批評においては誰もが言及する顕著な特徴としてあるのだが、それと対をなすように視覚の外側を流れる、強い思想性がある。そのことに注目し、その両者に張り詰められた接線を探求することが、野田作品を深く鑑賞する上での重要事ではないかと私は思っている。(そんなことをせずとも充分に楽しめる作品なのだが、ここは敢えて)

全体と個とが、また個と個とが共鳴すべく設えられたインスタレーションは、視覚的には説明性が希薄である。その一方で、「このように読み解いて欲しい」という、作家にとっての正解が存在する。
ゆえに、解釈の自由と正解とのはざまに立って、見ること、感じること、その直後から"考えること"が要請されるのだ。

だがしかし、視覚の外側にあるだけに、正解には辿り着けない(とはいえ、野田さんは知りたい人には包み隠さず語ってくれる)。それでも、鑑賞者の意志は正解へと惹きつけられ、惹きつけられる意志がある限りにおいて、正解へと近づくことはできる(はずだと信じられる)
それは真理への到達不可能性をうすらうすらと覚知しながら、それでも到達への意志を持続させることでようやく"希望"がひらかれる、そんな営みと相似的なのだ。

だとすると、その論理に気づくことがひとまずの正解である、と言ってもあながち誤りではなかろう。

意志と、意志を惹きつけるもの・・・

インスタレーションとテキストとの関係から、〈見える〉と〈見えない〉、感性と理性、全体性と無限、などなど・・・、
野田さんの作品が投げかける、対極性への、あるいは関係性への問いは、古今の哲学的な問題系との通路をゆっくりと顕現させてくれる。

そこで提示される美学のあり方には、今この時代において、何か大きな可能性が秘められているのではないか、そんな期待感が湧き起こった。
それはたしかに、"希望 HOPE"といいうるなにがしかであるのだろう。


TEZUKAYAMA GALLERY 11/23~12/21

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。