2015年5月23日土曜日

抽象絵画の根源性 ~渋谷信之・中井浩史・中島一平 絵画展「はじまりの応答」からの覚え書き (於、2kw gallery/大阪)

色彩同士の、さらには画面と言葉との距離による発光現象を捉える渋谷信之さん。

始点と終点とが繋がった一筆書きのような線の重なりによって、円環する存在を力動的に描く中井浩史さん。

補色関係にある二つの色と刷毛のストローク、内在的に制限された方法のみをもって光を表象する中島一平さん。



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戦争の世界化によって人間の存在条件が問われた第一次大戦が、アブストラクト(抽象)、シュルレアリスム、マルセル・デュシャンという現代美術の原基を胚胎させ、二度目の世界戦争を経て現在に続く展開がある。もちろん、美術に限らず現代ナントカの多くが戦間期に基礎を築くのであるが、緩慢な戦争前夜になるかもしれない今、その一角である抽象の強みはどこにあるのか?

私はこの抽象絵画三人展の初日トークイベントで司会を務める機会をいただいたのだが、以下はその経験を通じて考えたことのメモである。
(メモなのでまとまりのなさはご容赦いただきたい)


意味と無意味

抽象絵画にとって、無意味であることの強みとは何か?

たとえば、意味性が消去された抽象絵画があるとする。
それが即自的には(作品それ自体としては)無意味であったとしても、作品が観者へと差し向けられ受け渡される過程にあって、観者にとって作品は何かしらの意味を生成せしめる触媒にはなりうる。その場合、意味はつねに副次的、あるいは漸次的に生成されるだろう。
その一方で、作家にとって意味が開示されるのは作品を介した他者との交わりにおいてであったり、作品に面しての深い内省であったり、年月を経て自身の仕事を振り返る時であったり、あるいは開示されることはないかもしれない。
しかし、一般に特定の固有名詞とは関連づけられない抽象絵画は、何事も意味を見いださねば落ち着かない理性の桎梏から、人間を解放してくれる窓にもなりうるのは確かである。

それでも厳密にいうならば、何かしらの意味は〈ある〉はずだ、という希望的観測への誘惑は禁じ得ない。もしも〈ある〉としたら、それは観者にとって未だ開示されないものとしてあるような、そんなあり方であろうか。
もちろん、抽象絵画にはいくつものスタイルがあるのは承知しているが、このことは作品に添える言葉(タイトル)の有無には拘わらないのではないか。

この〈意味〉と〈無意味〉の関係は、〈見えるもの〉と〈見えないもの〉の関係とも相似形をなしているように思う。

では、作品が特定の名詞と結びつくことで初めて鑑賞が成立するケースだとどのようなあり方であるのか?
その名詞とは、作家が作品に付けるタイトルの場合もあれば、観者固有の記憶と結びつく場合もあるだろう。
いずれの場合においても、〈意味〉は観者にとって内的なものとしてしかありえないのではないか。だがそこに、鑑賞という行為がもたらす夢想のゆたかさがある。


時間の存在論

絵画に限らず、抽象芸術とは、個人的、個別的なものを超える普遍性への導きとなると同時に、個人的、個別的なものへと環流する径を鑑賞者に提示するメディウムとなる。
それは時にあえかで、時に複雑さや単純さの奥に隠れたものであるゆえに、見ることを通じて径が開明されるには、ある契機と時間とを必要とする。その契機とは、ハイデガーが『芸術作品の根源』でいう〈衝撃〉という概念で説明することに差し支えはないだろう(『芸術作品の根源』関口浩訳,2008,平凡社ライブラリー)。〈衝撃〉とはすなわち、作品が観者の視覚に、ひいては感性的なものに衝迫する力のことである。
そして〈衝撃〉の後には感性的なものになじむための時間を経ることが不可欠なのであるが、その時間を経ることで観者にとっての生きられた時間としてのカイロスが開かれる。計量可能な時間としてのクロノスを経ることで開かれるカイロス、これが〈衝撃〉とともに必要となる内的な時間である。それは可変的なものである。
つまり、抽象芸術とは空間に置かれるものでありながら、時間の秩序を束の間変成する装置となるのだ。
とりわけ絵画の場合、鑑賞は作品と対峙する形をとる。
そこでは、作品の色彩や形象、あるいは大きさを前に、まずは視覚を通じて何かが始まり、やがて時間の整序が変調するころに、心身の様々な感覚が作品との間で受容と排除の機制を発動させる体験となる。
この〈見ること〉への意志を通じて開示されるものを、軽視してはならない。
そして、夢想とはつねに目を通して作用するということも。

以上のように抽象芸術の強みとして述べた事柄は、実のところ程度や様相の違いを問わなければ広く芸術一般にも適用できる。
ここから、ハーバート・リードの〈すべての芸術は本来抽象的である〉という命題が導かれるのだが(『芸術の意味』瀧口修造訳,1966,みすず書房,29頁、リードの意図は次の言葉に言い表されている。
「抽象の能力を低く評価しないようにしよう。なぜなら抽象能力は、美術のみならず、論理の、科学の、あらゆる科学的方法の基礎であったからだ。homo fabor(ものをつくる人間)とhomo sapiens(ものを知る人間)との間に区別がつけられうるならば、その区別は、この抽象の能力に存する。」(『イコンとイデア』宇佐見英治訳,1957,みすず書房,34頁)


現代美術の表現方法の多様化や、デジタル・メディアが社会を席巻し始めた90年代半ば~ゼロ年代頃には絵画の不利が指摘されたようだが、一通り社会に浸透し、情報の過剰と感性の高速化が強要される現在にあっては、〈見ること〉をめぐる状況は切実さを増している。不利な状況が一変したわけではないが、絵画であることの強みが〈見ること〉に関わっている以上、そのアクチュアリティはむしろ強くなっていると言っていい。

抽象絵画を鑑賞することは、様々なメディアによる下意識や無意識へのすり込みで害されてしまった認知や情動の回路を組み替える、"はじまりの場所"にいつでも戻れるきっかけになるはずだからだ。

過剰さに、豊穣さが飲み込まれないために。



◆渋谷信之・中井浩史・中島一平 絵画展「はじまりの応答」 2kw gallery 2015.5.18~5.30
 

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