2017年7月26日水曜日

ヤスパース形而上学の根本概念、〈包越者〉とは?

私に対して対象的になるものはすべて、われわれが生きているわれわれの世界という相対的に全体的なもののなかで、そのつどつなぎ合わされている。われわれはこの全体者を見、そのなかで庇護されている。この全体者は、われわれの知のいわば一つの地平のなかに、われわれを包んでいる。
それぞれの地平がわれわれを閉じこめ、それ以上の展望を拒否する。それゆえわれわれはそれぞれの地平の地平をのりこえておし進んでゆく。しかしわれわれがどこに到達しようと、そのつど達成されたものをたえず閉じこめるところの地平が、いわば一緒に進んでゆく。地平はつねに新たに現存しているのであって、それが単なる地平であって終結ではないがゆえに、あらゆる窮極的な滞留を断念することを強いる。われわれは決して、制限づけてゆく地平がそこで終わりになるような立場を獲得することはないし、また、今や地平なしに閉ざされていて、それゆえもはやそれ以上を指示することのないような全体が、そこから概観可能になるであろうような立場を獲得することはない。(中略)存在は、われわれに対しては閉ざされないままであり続けるのであって、それは、すべての方向にわたってわれわれを無制限のところへと引っぱってゆく。存在はつねに繰り返して、そのつど限定された存在としての新たなものをわれわれの方に現れさせる。

われわれの認識作用は、(われわれが直接にそのなかで生きているところの)われわれの世界という無限定の全体から、(世界のなかで現れて世界からわれわれの方に歩み出るところの)限定された対象へと進み、そこから意識的にその諸地平において把握された存在のそのつどの体系の形での世界閉鎖性へと進んできた。この歩みのそれぞれにおいて、われわれには存在が現前しているが、しかしそのいずれをもってしても、われわれは存在そのものを所有しているのではない。というのは、どの場合にも、獲得された存在の現象をこえて存在のなかへとこえ進んでゆく可能性が示されるからである。限定された存在と知られた存在は、それ以上のあるものによってつねに包越されている。どの場合にもわれわれは、ある特殊なもの(存在の全体というそれぞれの思惟された体系もまた特殊である)を積極的に把握するに当たっては、同時に存在自体ではないところのものを経験する。

この経験がわれわれに意識された後で、われわれはもう一度、存在に対して、すなわち、すべてのわれわれの方に現れてくる現象が開顕されるにともなってそれ自身としてはわれわれから退いてゆくところの存在に対して、問いを発する。この存在、(つねに狭隘にする)対象でもなければ、(つねに局限してゆく)地平のなかで形成された全体でもないところのこの存在を、われわれは包越者と名づける。

◆カール・ヤスパース『真理について 1』「第二序文」より(林田新二訳,2001年[第二版],理想社[原書は1947年]) ※太字による強調は引用者。





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