2017年7月20日木曜日

後藤和彦「野原」「未来」(詩集『明日の手紙』所収)

「野原」

レタスを食べ過ぎて
へそからスイカが生えてきたってのは聞いたことあるけど
紙飛行機を作りすぎて
家に帰る道を忘れてしまったなんて聞いたことない
友達になってほしいとは思うけど
カーテンレールでターザンするのはやめてください
ぼくはおこられたくないからね
氷の上をスケートしていく背中を見つめながら
これはもしかしたら恋かしらと思う
だってあのぼんぼりのついた帽子がとってもかわいいんですもの
そう考えてこれはいけないぞと思う
電話をかけてみたらそっちは夏のそうで
ぼくらの見てるものは
虹でもなんでもないそうだ
だったらいい匂いがいっぱいすればいいのに
自分の手がたんぽぽのわたげみたいになるように
はにかんだのは

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「未来」

地球は遠いから
海の中は青でいっぱい
絵の具の底から
声が沸いてる

未来の中にはみずたまりがあって
そこにちいさなひとひらのような
うすももの花
未来にしか咲かない
ひとつだけの花

今にもきっと声がおちてくる
水いろの炎が街をつつんで
夜になっても月は来なかった
遅れているらしい
だれかがいっても
みんな聞かない
忘れていたから

夜の空は水色だったか
あかねのようなあまさがあったか
しるせないようなきむづかしさもあったか
目を開いているとそのことが聞ける

だれも水たまりの中では 足を動かさない
未来に歩いていると声がふるえる

地球のはしに だれかのための
ちいさな橋が渡されている

まるいようなそうではないこの星の
そのさきまでを歩くには
湿った靴がないとぼくたちは歩けない

靴がほしいと
子どもが泣いてる

きのうに見あげられながら


(後藤和彦詩集『明日の手紙』所収、2016年、土曜美術社出版販売刊)





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(前略)
ここには現存在の夢語りが衰えてしまって久しい世界の、シビアな危機意識と、それでもなお続く人生、そして未来世代への信頼に満ちた落ち着きがある(中略)。
 彼が住処とするのは宮沢賢治のようでいて、グリム兄弟や倉橋由美子のような童話の世界であるのだろうが、いずれにもせよ「レタスを食べ過ぎて/へそからスイカが生えて」(詩「野原」)くるような事態が日常化した世界である。彼の現実感覚が繰り出す言葉は、消え去りゆく現在と、崩れゆく世界への楔でもあることを銘記しておこう。我々、誰しもが目の前にあると信じて疑わない世界と、彼が生きる童話の世界とが重なる時空にぽっかりと開いたのが、彼の詩群である。
 『マルメロ硯友会』『紫陽』『酒乱』などの詩誌で長年にわたってすぐれた活動を続けてきた彼の活動姿勢には、美学的判断の基準として無意識裡に詩人たちの理性を蝕む美学の体制を突き抜ける、潔さが一貫してある。多くの表現者たちが囚われている、権威化した諸価値の体系(オトナの体系)は、そもそも芸術一般が擁護する価値とは真逆を向いているのだから、共感が誘われる地点から我々の実存が問われることになる。
 「未来の中にはみずたまりがあって/そこにちいさなひとひらのような/うすももの花」(詩「未来」)、それが「未来にしか咲かない」ことを我々詩人は誰も疑わないだろう。だが、「だれも水たまりの中では 足を動かさない」のだ。それがなければ歩くことができないという「湿った靴」はどこにあるか?

(京谷裕彰「子どもとオトナ」より[『詩と思想』2017年4月号所収])




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