2011年3月27日日曜日

偶感

東北・関東を襲った大地震と原発震災は、美学の規準をも大きく揺さぶることになるように思います。
詩や小説といった文学や造形芸術、映画芸術にいたるまで、これまで称揚されてきたものと、貶められてきたものとの転倒が起こることもありうるでしょう。
2011.3.11以後の創作と批評が、この問題をどのように扱うべきなのか、またこの出来事が創作と批評にどう影響するのか、状況を注視しつつ思索してゆきたいと思います。

東電原発震災は相当に長期化するであろうし、その間に浜岡や若狭湾の原発銀座を大地震が襲わないとも限りません。そしてそれでも国家や資本はメディアを通じて大衆を愚弄し続けることでしょうが、批評の場において、そして人が暮らしを営む様々な場において、物質文明と資本主義経済における人間の実存が厳しく問われることはまず間違いありません。

今後、芸術をめぐる様々な問いが、再びアクチュアルな問題系として立ち上がってくることでしょう。

2011年3月4日金曜日

福永宙展「גולם‎ -golem-(ゴーレム)」 於、ギャラリーwks.

ゴーレムとは東欧ユダヤ人の間に伝わる伝説で、粘土など無機物によってつくられた人形に、ラビ(ユダヤ教の聖職者)が神の名を唱えることによって命が吹き込まれたもの。それは作った者の命令だけを忠実に実行する召し使いのような存在ですが、取り扱いには厳しい制約が数多くあり、それを守らないと手が着けられなくなるという、危険な偶像信仰でもありました。ギリシャ神話や旧約聖書、その他ヨーロッパの伝説には金属や石で作られたゴーレムもあり、それらに倣って幻想文学やゲーム(ドラクエなど)などにも数多く登場します。

今、大阪・西天満のギャラリーwks.で開催されている福永宙(ふくなが おき)さんの個展では、象徴的、隠喩的に様々な意味を重ねられた鉄のゴーレムたちが、静かに佇んでいました。
どのゴーレムもレンガブロック状の塊を積み重ねた原型から作った鋳型に鉄を流し込んだ鋳鉄の技法によるもので、眺めているとその独特の質感からは様々な詩情が喚起されます。ブロックの一粒一粒が人間の手による仕事、あるいは人類の歴史とともに変遷してきた技術の蓄積を象徴しているかのようです。


入り口を入って最初に出くわすのは、福永さんが最初に制作したgolem #1 (2009年)。えもいわれぬ悲哀を感じました。

golem #1の右肩部分。表面にはワックスを塗っているそうですが、この作品は制作から二年を経ることで微妙な錆びが浮き出ており、まるでテクノロジーの廃墟にうち捨てられた建造物を思わせます。



頭があるのかないのかわからない(多分ないか、あっても極めて小さい)、手は長いが指はなく、人間とは似て非なる形姿。自信に満ちた存在感と、愚鈍で不器用な印象とが併存しています。表情はありませんが、しかし無表情とも言い切れません。

動物とも怪獣ともつかない四つ足のものが1体。愛玩用ロボットを連想しました。



福永さんのゴーレムは、人間が生活を豊かにする目的で創造され、その時その時代、確かに大きな意味を持っていたはずのものでありながら、いずれ朽ち果て忘れ去られる技術や道具の象徴のように思えました。それは現代のフェティッシュ(呪物)ともいうべきスマートフォンかもしれず、あるいはハイブリッド自動車かもしれず、あるいは薄型テレビかもしれません。
その一方で、破壊や脅迫を目的とする方向に技術が応用された、拳銃などの武器、あるいは戦闘機や核兵器、そして疲弊した地球と人類を救うかのような欺瞞によって稼働している原発など、手に負えない危険な技術の象徴であるようにも思えます。

人類が鉄を手にしたことで農業生産が飛躍的に拡大し、その結果人口も増加して文明の礎が築かれたわけですが、その反面、武器の高性能化など負の側面も増大しました。そのように新しい技術の発明は、歴史上、常に新しい災いをも発明するというパラドックスを原罪のようにまとわりつかせてきました(ポール・ヴィリリオ『アクシデント 事故と文明』を想起)。

ですが今回出会った福永さんのゴーレムたちは決して声高に技術信仰への警鐘を発するようには見えず、むしろ静かに何かを語っているようで、その姿、その佇まいは人がモノを作ることで積み上げられてきた文明、それを支えてきた無名の人々への敬意をも感じさせるものでした。

「ゴーレム」というテーマは僕らが今立っている10年代のとば口にふさわしい、非常にタイムリーなものなので、可能な方はぜひ足をお運びください。

ゴーレムをみて本当にいろいろと思いめぐらせることがありました。
つい最近、パーシー・ビッシュ・シェリーの妻、メアリー・シェリーが1818年に発表した小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』の新訳が出たので、それを読みながらまたいろいろと考えてみたいと思います。





※この展覧会は3/12(土)まで。

2011年2月25日金曜日

チャイコフスキー「マンフレッド」交響曲 

シェリーの友人、バイロンの劇詩『マンフレッド』を題材にした、チャイコフスキーの「マンフレッド」交響曲にはまっています。
YouTUBEから第一楽章を拾ってみました(指揮者・どのオケ・録音時期すべて不明?)。





で、僕が聴いているのはマルケヴィッチ指揮/ロンドン交響楽団による1965年の録音であります(大阪市立図書館で借りました)。




2011年2月22日火曜日

カール・ヤスパース『超越者の暗号』

暗号は現実の超越者の言葉であって、超越者そのものではありません。それらは浮遊し、多義的であって、普遍的に妥当するものではありません。暗号の言葉は、悟性にとって聞くことができず、ただ可能的実存としてのわたくしたちにとって聞くことができるにすぎません。
史実による報告においては、暗号は種々な観点に従って外面的に秩序づけられた、空想と幻想の集積となりました。しかしそれに反して哲学的反省――哲学的反省にとってこの報告は役立つのでありますが――においては、それを思惟することによって遂行される内的行為によって、わたくしたちは自己となる準備をしたり、自分自身を想起したりすることができます。実存の根源的な覚知と決断のその都度歴史的に一回限りの瞬間においてのみ、暗号は真実に開明する力をもつことができます。

◆『ヤスパース選集37 神の暗号』(草薙正夫訳,1982年,理想社)「第八講」より。→ヤスパースは「神」「超越者」という言葉を似通って意味で頻繁に使っているという理由で、訳者により邦題は『神の暗号』とされている。


超越者とは、実存が限界状況に面した時、たまさか出会うことの出来るなにものかであり、それは暗号という形でのみ覚知できるにすぎませんが、僕らの人生において時に大きな影響を与えるかもしれないもの。それは信仰者にとっては神であり啓示であったりするし、詩人にとっては詩的インスピレーションの源泉であったり時折降ってくる暗号としての詩的言語そのものであったりしますが、別に信仰者や詩人でなくとも、何か深刻な挫折を味わったときに直感的に覚知することのできるなにものかである、とひとまずは言っておいて差し支えないでしょう。

この著書は1961年にバーゼル大学で行われたヤスパースの最終講義をまとめたもので、無神論と有神論が対自的にはなぜ和解できないかを理解する手がかりを与えてくれる哲学であると同時に、無神論と有神論との間の橋渡しの可能性を開く哲学でもあります。
そして哲学者としてのヤスパースの思索のエッセンスを全八講の中に極度に凝縮させたものでありながら、講義という性格上、様々な例を挙げながら平易に語ってくれることに魅力があり、それゆえ後期ヤスパース哲学入門ともいえる手引き書となっています。そこにはヤスパースの哲学が目指した究極の課題ともいうべき、ニーチェによって神の死が宣告された後における、新しい形而上学の構築の到達点が垣間見えるのです。
しかし邦訳は一度も増刷されず、また発行部数も少ないようなのでヤスパース選集の中でも特に入手困難な稀覯本になってしまっているのは残念でなりません。

とはいえ、第1巻の『真理について』(邦訳は全5冊、2000頁を越える大著→僕もまだ完読できてません
⇒2015年11月に完読)が公刊されたのみで遂に未完に終わった『哲学的論理学』の第2巻、『範疇論』のエッセンスが第六講に盛り込まれているのも貴重で、ヘーゲル以来の哲学的論理学の刷新と未来哲学への展望が窺えるところなどは、ポスト構造主義といった後のフランス現代思想がハイデガーを経由して考究していく数々の問題系をヤスパースが早くから認識していたことを示すものであることと併せて、アカデミシャンには反省を促したいところ。
アーレントがヤスパースとの往復書簡の中で、『哲学的論理学』を「西洋哲学の最後の書物にして、未来哲学の最初の書物である」と評した言葉は、往復書簡の邦訳が公刊されて6年が経つ今、どう受け止められているのか、あるいは受け止められていないのか・・・。

とくかく、この本にはもの凄いことがたくさん書き込まれています。それも極めて簡潔な言葉で。

ほんとに平凡社ライブラリーやちくま学芸文庫、あるいは岩波文庫の企画者には目を開いてほしいなと思うのですが、研究者も批評家も編集者も?しつこくハイデガーに呪われている現状では厳しいとしかいいようがありません・・・。ハイデガーの哲学も韜晦された暗号のような性格をもっていますが。

でも、実存をめぐる哲学はますますアクチュアルになっているのですから・・・。

 

2011年2月21日月曜日

Piazzolla "Libertango" dancer: Pablo Alonso


ついでにこれも。

Piazzolla "Le Grand Tango"


昨日、ピアソラの"Oblivion"を紹介したので、今日は"Le Grand Tango"を。
何年か前にコントラバス奏者の四戸香那さんからコントラバス・バージョンの重厚な音源をもらって大好きになったのですが、これはピアソラのピアノとクレマーという人の(おそらく)チェロ・バージョンです(普通はチェロ)。

2011年2月20日日曜日

Joan Miró Ferras Paintings / Music: Oblivion by Ástor Piazzolla


ミロおじさんとピアソラ"Oblivion"の美しいコラボ。


ライヤール ランボーの《人生を変える》とマルクスの《世界を変革する》ということが一つの同じことを意味しなくてはならない、とあなたもブルトンのようにお考えですか?
ミロ ええ、まったくそのとおりです。私がいらだつのは、苦労して描いた絵がアメリカの億万長者のところに行ってしまうことです。いやですね。

◆ジョアン・ミロ/ジョルジュ・ライヤール『ミロとの対話』(朝吹由紀子訳,1978年,美術公論社[原書:1977年])より。 

2011年2月19日土曜日

〔注目の個展〕 福永宙「golem」 於、ギャラリーwks.

西宮船坂ビエンナーレにも出展されていた福永宙(ふくなが おき)さんの個展「golem」がもうすぐ始まります。
ゴーレムとは東欧ユダヤ人の間に伝わる伝説で、粘土など無機物によってつくられた人形に、ラビ(ユダヤ教の聖職者)が神の名を唱えることによって命が吹き込まれたもの。しかし、それは人間を造物主の地位になぞらえる危険な偶像崇拝でもありました。



「ゴーレムが徘徊している。私たちに何かを言おうとしているようだ。」(ネグリ&ハート『マルチチュード』より)


2011.2.28(月)~3.12(土) 12:00-19:00
ギャラリーwks.(大阪・西天満)


レヴュー↓
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2011/03/golem-wks.html

2011年2月17日木曜日

寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです ~奈良少年刑務所詩集』、売れてます!

寮美千子さんのご尽力により『紫陽』23号に掲載できた受刑者の詩について多数の反響が編集人のもとに届いていますが、その寮さんが編纂し、昨年6月に刊行された『空が青いから白をえらんだのです ~奈良少年刑務所詩集』(長崎出版)がamazonの詩部門で上位にランクされています。
まだお読みでない方はぜひ。




【過去の記事】
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/08/blog-post.html

2011年2月16日水曜日

『Meets Regional』273号

今出ている『Meets Regional』273号に親しい人々がかかわる記事がでています。


うんこ詩人も店員を務める京都パレスサイドホテル二階のオカバーのマスター、ぴゅーとんこと岡くんが紹介されています。
みなさま、木曜の夜はぜひオカバーへ。

フランコ・ベラルディ(ビフォ)による70年代イタリア・アウトノミア運動史『NO FUTURE』(廣瀬純・北川眞也訳,洛北出版)の書評が出ています(評者:永江朗)。この本、敬愛する編集者・竹中尚史さん(フーコーのそっくりさん)がつくりました。DIYな人、DIYに踏み出せない人にも勇気をもらえる本ですが、敢えていうと、特にドゥルーズ=ガタリやネグリについて多少なりとも言及することのある物書きの方、必読です。

アート関連では、おかけんたさんや小吹隆文さんの連載も。