2012年12月8日土曜日

【覚書】ジョルジョ・アガンベン『到来する共同体』




ジョルジョ・アガンベンが来たるべき民主主義のために書いた『到来する共同体』(上村忠男訳,2012,月曜社)では、〈何であれかまわない存在〉が共同性の(非)主体として想定されている。

すなわち、アガンベンのいう〈到来する共同体〉とは、〈何であれかまわないもの〉たちの共同体、ということになるのだが、〈何であれかまわないもの(存在)〉とは何なのか? 
それをアガンベンは、いつものように古今の哲学・宗教・文学・言語学などを縦横無尽に行き来しながら、晦渋な論調で一冊まるまる使ってレリーフのように彫り進めていく。それはこの概念が明確に定義付けるということとはそもそも馴染まない性質のものだからである。それでもアガンベンの他著作と関連の深い文脈では、簡潔な言葉でその属性が明かされる。

存在しないでいることができる存在、自ら無能力であることができる存在」(50頁/9節「バートルビー」)

何であれかまわないものというのは単独性に空虚な空間が加えられたもの、有限でありながら、ある概念によっては限定されえないものである」(86頁/16節「外」)

ブランショ『明かしえぬ共同体』、ナンシー『無為の共同体』という共同体の(不)可能性をめぐる問いの系譜を同じく引き継いだリンギスの『何も共有していない者たちの共同体』に比べると、悟性的にも感性的にもすっきりとは理解しづらい。苦しみの中で求め、読み、この本に行き着いた人たちであっても、やはりそのように思う人は少なくないだろう。それがアガンベンの不人気の理由なのだろうが、すっきり晴れやかにはけっして語り得ないものの中にこそ価値をみるというのがアガンベンのこだわりなのだから、仕方がない。それでもやはり、実践を見越した思想書である以上は使えないと意味がないので、アガンベンからこの本を受け取った私たちは〈何であれかまわない存在〉を具体相においてどのような存在に当てはめて語るかを考える必要がある。それが、この本を道具として実用化する上での鍵になることは間違いない。
「不法」就労者、薬物中毒者、失業者、ニート、フリーター、知的浮浪者、芸術的浮浪者、有象無象など、思い当たるフシのある人にとっては大した話ではないかもしれないが、語ることで実用化するためには、あえて文学作品から例示するのもちょっとした面白みになろう。

私が最初に思いついたのは、寮美千子さんの『星兎』(1999年,パロル舎)に出てくるぬいぐるみのような生身の生き物「うさぎ」であった。

以下は、「うさぎ」と主人公の少年・ユーリとの会話。

「ところできみ、名前は?」
「えっ」
「なんて呼んだらいいのかな、きみのこと」
「あ、ぼくユーリ。ユーリって呼んでよ。きみのことは、なんて呼ぼう」
「『うさぎ』でいいよ」
「名前は、いらないの?」
「どうして名前なんかいるの? 『うさぎ』って呼んで、ぼく以外のうさぎが返事をすると思う?」
ぼくは、首を横に振った。
「ぼく、なんにもいらないんだ。例え名前だって、持たなくてもすむものは、いらない。家だっていらないし、記憶だとか、過去だとか、そんなものだって、なくたっていいって思っているのさ。実際、ないんだけどさ。だからって、やせ我慢してるわけじゃないんだ。これはこれで、さっぱりしていて気持ちがいいよ。いくところもないし、帰るところもない。でも、どこへでも好きなところへいけて、好きなところへ帰れる。ぼくは、誰のものでもない。ぼくは、ぼくのものなんだから」
ぼくは、びっくりしてうさぎの顔を見た。
こんなふうにいうのはおかしいかもしれないけれど、その時のうさぎの顔は、すごくきれいだった。夕陽がうさぎの顔を照らして毛の尖(さき)がきらきらと光り、うさぎは遠くを見ていた。どこか、すごく、すごく遠くを。薄紫に煙る半島に太陽が沈もうとしていた。その反対の海から、月が顔を出そうとしていた。


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