2016年7月11日月曜日

加藤巧 展「ARRAY」(the three Konohana/大阪市此花区)



美学者的、かつ批評家的な眼によって制作された、非常に理論的な絵画だな・・・。

これが初見したときの感想であるが、構造的なものの表徴として絵画を定位しているのだとしたら、その論理はどのように構築されたのだろうか? 鑑賞する私は分析してみたくなった。

絵画をいったん素材のレベルにまで解体して再構築することを制作の基礎とする加藤さんは、顔料に卵黄を混ぜて絵の具をつくり、描画する。卵テンペラという古い技法である。
古い技法であるということは、描画における制約も大きい。絵の具の伸びがよくない、一度に定着できる量に限りがある、すぐに乾く、といったように。

今回展示された支持体のサイズは30×30、10×10、60×2(単位は㎝)の3種類を基調としつつ、別の規格のものも若干ある。

これら、石膏で地塗りされ卵テンペラで描画された絵を眺めていると、そこに何が描かれているのか?という疑問が、第一印象とともに私の意識をしばらくのあいだ引きつけるのだが、その関心は持続しつつも、結局明かされることはない(挫折というよりは宙づりといった感じだろうか)。

オートマティックなドローイングをタブローに起こしたものであろう、といった見込みだけは外れていないのではないか、そんな慰めのような感覚を頼りに、鑑賞はさらに深まる。
描かれた形象はとても素朴で、色遣いも多くは落ち着いている。
そのためなのかどうなのか、しばらく視線を画面に滞留させていると、作家の狙いは色や形象それ自体にはないということだけが、はっきりと了解できる(させられる)。

そうこう考えながらフロアをさまよっていると、これら3種類の規格のタブローが、ある規則なり法則なりをもって並んでいることに、あるとき気づくのだ。

その気づきを伝えると、ホワイトキューブの壁面の長さを総計した数値を各サイズのタブローの枚数(30×30は7枚、10×10は6枚)で均等に割った間隔で配置している、そう説明してくれた。
つまり、三種類の規格のタブローの配列は、それぞれが他に対して少しずつずれたかたちになる。

この配列の論理が、作品を公開するにあたって環境との関係から帰納されたというところがたいへん興味深いのだが、場所や作品の物語性など固有の文脈には依存しないスタイルでありながら、この論理はこのギャラリーでしか導かれ得なかったのではないか、そんな気もしないではない。
他ならぬthe three Konohanaで、といえばもう固有名詞であり、固有の文脈に否応もなく接続してしまうではないか。
果たして人間は固有の文脈から完全に離脱することができるのか? と問われるならば、できない、としか答えられないだろう。しかし、この程度の接続であれば直接制作のスタイルをゆるがすことはないばかりか、固有の文脈からしか絵画と出会えない〈私〉と絵画との通路が確保されている、そんな安心感をももたらしてくれる。
いやいや、文脈を支える固有の条件や制約がなければ展示など成り立たないではないか。そもそもこんなふうに仮定に基づいて仮定を重ねるのは、屁理屈のような遊戯ではないか、とも思ったり・・・。

それはさておき、展示する場所が変ればその空間の寸法によって間隔が伸びたり縮んだりはしても、導かれた論理それ自体はすでに確固としてそこにある。量的には可変でありながら、安定した論理として。

これを、加藤さんは方程式と呼ぶ。

この方程式に代入される個々の絵画を制作する加藤さんは、絵画制作のモチーフや目的や目標といった、創作への意志を前方へと引っ張るものに対し、その手前でつねに踏みとどまっているように見受けられる。

作家を包み、そして越えてありつづけるものの前で、踏みとどまる。

この姿勢からは、超越的なものは表象しない、あるいは超越的なものへの誘惑は断ち切る、そんな慎ましさすら窺えないだろうか。

素材や方法によって制約を課すことで出来上がった展示空間は、理性的であり、論理的もあるが、このスタイルには自己の視座をつねに安定させる意味合いもあるのだろう。
そして、鑑賞する私の無意識を乱暴につらぬくようなことはしない。鋭さがないという意味ではもちろんない。そういう意味では、安心して眺めることのできる優しい絵画である。

しかし制作する人間としての自己を、観察、分析する態度に、徹頭徹尾裏付けられているという点で、実のところ実存的なテーマへの通路はあらかじめ設けられているともいえよう。
鑑賞と思索を重ねることで、やっと私の無意識に、実存に反照するものが立ち現れる、そんなゆっくりとした時間の中でではあるが。
あるいは無意識裏に刻印された印象を、理性で読み解く過程の中で・・・。

だから、「なぜ描くのか」「何を描いているのか」といった問いは、作家においてはすべて現象学的に判断留保されている、そのようにいえるのではないか。

この判断留保(エポケー)によってはじめて「描く」という行為や、「描かれたもの」の根源を辿ることができる、そんな確信が窺える。

そうして、「何を描いているのか?」という問いに、
加藤さんは「描(えが)きを描(えが)いているのだ」、と応答する。

「描きを描く」・・・。

「描き」とは、制作する主体の立ち位置を表す言葉でもあるのだろう。

タブローの点数には依存せず、さらにはタブローの大きさにも影響されない、絵画におけるひとつの美学がここに提示されている。



◆加藤巧 展「ARRAY」 the three Konohana 2016.6.17-7.31

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