2016年7月27日水曜日

松元悠《カメ殺人事件》《壁》のリーディング


松元悠(まつもとはるか)さんの絵はいわゆる「絵解き」によって鑑賞が深まる絵であるが、イコンなどのように道徳的な教導を目的としたものとは違い、決まった答えがない。
答えがないから、各人が自由に解釈できる。
しかし好き勝手に解釈、とはいかない。タロットカードやオラクルカードのようなリーディングを促される。
なぜなら、図像は作家の意識的な経験から無意識裡に合成された象徴性の高いものなので、自ずと名指しえぬ領域へと意識が導かれていくだろうから。そして構図には世界観が反映されている。
名指しえぬ領域に鑑賞者の意識が導かれたとしても、美的な、あるいは倫理的な判断の結果は視る度に異なるかもしれない。リーディングは真逆になることもあるだろう。

ここではっきりしているのは、作家の生活における、私的であると同時に社会的な経験がモチーフになっているということ。
一見すると閉じられているようにみえるものでも、つねに外へと開いている。作家の問題意識も、作品も、ともに開かれによって特徴づけられる。

それでありながら、作家本人は制作の過程において象徴物の意味を明確に把握しないため、作家と、鑑賞者による読み解きという行為との間を作品が浮遊する。(悟性による構築という方法を採用していない)ゆえに、作家ですら気づいていなかった恐るべき現実が、鑑賞者との対話によって次々に開示されていくのだ。
見た目は「シュール」だが、一般的な幻想美術の系譜には収まらない(もちろんそこへも広がるが)。
作家の内的世界と、作家を超越してある世界とが同一平面上に描き込まれることで、現実を超えた現実が画面の中に凝縮されている。つまり〈強度の現実〉がそこにあるということだ。

松元さんの作る絵は、紛れもなく21世紀のシュルレアリスム絵画である。それを条件付けているものがあるとしたら、〈開かれ〉に他ならない。

以下、二つの作品について、リーディングを披瀝することにしよう。

《カメ殺人事件》 水彩画,2014(筆者蔵)

描画された支持体のサイズは縦55㎜×横90㎜とても小さいが、台紙の余白と唐草の額縁が意味への衝動をかき立て、見る度に私の無意識と反応し、本質を同じくしつつも異なる寓意が湧出、結像する不思議な絵画である。

おとなしく殻に籠もって生きているカメが、悪意あるなに者かによって凶器として使われたという寓意的な絵画。実際の殺人事件のニュースがモチーフになっているそうだが、イメージの展開はそこにはとどまらない。長いものに巻かれて殻を固くする生き方をしていると暴力的な秩序に利用され、いつの間にかその秩序に同化し、自らの存在が他者を圧する凶器になってしまう・・・自発的隷従批判・・・などなど。画面の構図左側にいる黒い装束の人物(カメをもっている)が暗示するものが、実はもっとも重要な図像であることがわかった瞬間、激しく鳥肌が立った。
水面下にあって人間をおいつめ、判断を誤らせる構造的なもの一般を象徴しているようだが、殻や甲羅は繊細で壊れやすいものを守るための鎧でもある。
だとすると、カメとは「ありうるかもしれない私」の姿であるともいえる。
反面、「ありうるかもしれない私」とはカメを凶器として使う側、でもありうることがこの作品の強度であろうか。

 《壁》 リトグラフを基調としたミクストメディア版画,2015

支持体のサイズは1000mm×765mm。

画面中央に佇む、流下する滝を衣のようにまとった女性が〈壁〉を象徴している。
その〈壁〉によって人々の心が分断されてある、この世界の様相を描いているのだろうか。滝には魚が流れ落ち、滝壺の回りの沼沢には腹を切り裂かれて死んだ魚が浮かぶ。
沼沢には岩に混じって大きな蟹の甲羅もある。

〈壁〉が分断する両側の人の群れは、異なる装束を纏いながらもみなそれぞれ〈壁〉を象徴する中央の女性と同じ顔をしているのだが、これらの〈顔〉はすべて作家自身の肖像なのだという。
そして蟹や魚などの魚介類は、作家にとっては幼少の頃から身近なものとしてあったそうで、象徴的な意味をもって様々な作品に登場する。それらは制作時点では意味が開示されることなく無意識裡に配されるようだ。

私は作品《壁》を以下のように読み解いた。

ここには複数に分裂してある〈現存在〉、あるいは〈ペルソナ〉が暗示されており、それらを分離している〈壁〉すらもが自らの肖像である。この画面上の事実からは、実存をめぐる様々な相が描き込まれていることを示唆しているように解される。

そして、〈壁〉とは現存在を潜在意識の内奥で統べる上位の存在、つまりスピリチュアリストがいうところの〈大いなる自己〉、もしくはヤスパースやレヴィナスやメルロ=ポンティがいうところの〈実存〉と読める。あるいはニーチェのいう〈エス〉、あるいは〈実存〉に対峙する〈超越者〉とも。

この絵を読み解くための思考のツールは思いつくだけでもレヴィナス、ヤスパース、ユング、フロイト・・・などが挙げられるが、どのようなツールを使うかは各人の自由な選択に完全に委ねられているとしても、深層にあるものは容易には開示されないままにあるだろう。
それでも、視覚的な衝迫力をもって像が脳裏に印象づけられるため、いつか不図したことで明かされるかもしれない、といった期待は持続する。
この写真画像を見る度に、あるいはいつか再会の機に恵まれたときに、印象は何度でも変奏され、明かしえぬものが訪れる解として明かされるかもしれない。

松元さんの作品は反復して鑑賞するにふさわしい絵であり、シュルレアリスム絵画が、内包された実存思想から〈美学〉と〈政治〉へ外延していく好例である。

または、外延から内包へ、逆のベクトルとしても。




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