2014年3月4日火曜日
『一篇の詩を三人がそれぞれ修正する四通りのケース』(及川俊哉+髙塚謙太郎+松本秀文+山田亮太)
差出人不明のメール便で『一篇の詩を三人がそれぞれ修正する四通りのケース』(及川俊哉+髙塚謙太郎+松本秀文+山田亮太)なる詩誌が届いた。
これは四氏各自がそれぞれ既発表の詩を提出し、他の三氏が各々自由な方法によって書き直した上で、その意図についてコメントを添える、というもの。
詩語に込められたイメージと伝達におけるその変容、そして原詩を受け新たな詩の創成へといたるプロセスの中に、自他の境界線上で詩性を受け容れつつ拒絶する、スリリングな美学のせめぎ合いがみられる。それぞれに屹立する主体の辛辣さ(あるいは峻厳さ)とは裏腹に、そこでは詩性がすでに自他不分明のものとしてやりとりされてあることに、ほのかな温もりが感じられるのだから大したもんである。これは、共にあることのよろこびに違いない。
そんな彼らは互いにまったく異なった個性をもつ詩人たちだが、共有しているものは小さくないように思えた。
本誌は四氏共同による詩学的実験でありつつ、詩がどのように読まれ、別の詩を触発するのかについての大変興味深い報告書(のようなもの)になっている。
一般的な通念として了解される類の詩誌ではない。
2014年2月9日日曜日
有本健司 個展「群れより」 於、SANSEIDO GALLERY (神戸)
「繋縛」(2013)
繋縛は「けいばく」と訓むのだろう。
緊縛ではないが、似ていなくもない。繋(つながり)と縛(しばり)と、それぞれを分けてみれば、一見対照的な字義の奥にある両義性や親近性から、様々な類推が浮かび上がるだろう。
横並びの五体の影像は、頭がないのではない。あるにはあるのだが、黒い帯状の闇に五体とも浸っているのだ。
だらりとした両腕は指先まで溶け出すように弛緩していながら、両足はしっかりと足指で地を踏みしめ、正面を向いている。
この初個展に併せてつくられた和綴じの『有本健司詩集』。
ときおり、助辞(助詞)によって継がれる自立語や文節そのものがまるごと欠落したまま詩行が進められる、その語法が絵画との間に複線的な関係の結ばれを示唆しているようで、興味深い。
詩集を読み進めていると、展示作品との関連を思わせる詩行に出会うこともある。
絵画と言語の表面から受ける印象としての不安や揺らぎとは裏腹に、造形芸術と言語芸術とが相関してあること、両者が実存の源を同じくしてあることへの確信が窺われる。
◆SANSEIDO GALLERY 1/30~2/18
繋縛は「けいばく」と訓むのだろう。
緊縛ではないが、似ていなくもない。繋(つながり)と縛(しばり)と、それぞれを分けてみれば、一見対照的な字義の奥にある両義性や親近性から、様々な類推が浮かび上がるだろう。
横並びの五体の影像は、頭がないのではない。あるにはあるのだが、黒い帯状の闇に五体とも浸っているのだ。
だらりとした両腕は指先まで溶け出すように弛緩していながら、両足はしっかりと足指で地を踏みしめ、正面を向いている。
この初個展に併せてつくられた和綴じの『有本健司詩集』。
ときおり、助辞(助詞)によって継がれる自立語や文節そのものがまるごと欠落したまま詩行が進められる、その語法が絵画との間に複線的な関係の結ばれを示唆しているようで、興味深い。
詩集を読み進めていると、展示作品との関連を思わせる詩行に出会うこともある。
絵画と言語の表面から受ける印象としての不安や揺らぎとは裏腹に、造形芸術と言語芸術とが相関してあること、両者が実存の源を同じくしてあることへの確信が窺われる。
◆SANSEIDO GALLERY 1/30~2/18
2014年1月26日日曜日
田中秀介のシュルレアリスム ― 二つの展覧会より
「超えてきた眼前」*
田中秀介さんの絵に付せられたタイトルは、絵と釣りあう重みをもっている(というにはあまりにもさりげなく在る) 。それらは鑑賞において、絵に秘められた謎の扉を開く鍵のようなものと思えるし(扉を開いたところでさらなる謎が待ち受けているかもしれないのだが)、絵のように視覚化されないだけに、より深い謎であるとも思える。
いずれにせよ、私たちが日常使用する話し言葉・書き言葉とは異なる、独自の論理をもったシンタックス(統辞法)が窺えるそれらは、紛れもなく現代詩の言葉である(いわゆる"ポエム"の言葉では断じてない)。たとえば絵の前で「超えてきた眼前」というタイトルを読むと、何"が"「超えてきた」のか、何"を"「超えてきた」のか、はっきりとはしないが、「眼前」という言葉を正に鑑賞者の眼前にある絵から切り離して解釈しようと努力しても、かなわない(タイトルを読まないのならその限りではないが、それではもったいない)。それぞれに力をもった言葉と絵が、それを見る主体との間で何かをとり結ぶがゆえに、切り離すことができないのだ。これは、美術の強度であると言っていい。
このように、助辞(助詞)や、助辞によって綴られる(はずの)要素の欠落が仄めかされ、発話の主体も不明瞭なままにおかれているのは、意識的にか下意識的にか、空白が設けられていることによるのだろう。
そこにある空白は、絵と作家との間の、けっして明かされはしないが誰をも拒絶しない強い論理の存在を示唆している。だから、タイトルからそう遠くないどこかにある(はずの)「~は~」「~を~」「~の~」といった格助辞の前後に、画面上のモチーフを入れるか、鑑賞する"私"を入れるか、あるいは側に立っている野村ヨシノリさん(ギャラリーOUT of PLACEオーナー)を入れるかで絵の見え方、意識への迫り方ががらりと変わる、そんなことが可能になるのだ。もちろん、画面には描かれておらず、絵画のコンテクストともまったく無縁なものを入れたってかまわない。
欠けた文法要素には自由に何かを代入できる。
田中作品の場合、タイトルを読んだ鑑賞者の意識が向かうのは絵と言葉の間であるのだから、そこに何かを入れると〈遊び〉が生まれ、〈遊び〉を通じて見えなかった何かが見えるようになる。作家にとっての〈遊び〉と、鑑賞者にとっての〈遊び〉とがここで自由に交わり合う。
そうして物語は立ち現れる。誰かと一緒に語らいながら鑑賞するならば、なお一層自在に。
以下の絵「遠い時速い場所」**を見ながら空想したとりとめのない物語を、書き連ねてみよう。
石仏が安置された祠(ほこら)が建っているのは岬の突端。海は荒れ、波は逆巻き、水平線は猛り狂ったようにせり上がっている。
寒い冬の午後、軽トラックで岬までやってきた男はそのまま軽トラごと海に飛び込むつもりだったが、祠の前に来たとき、何かが起こった・・・
祠をみて思い留まったのかもしれないし、中の石仏から発せられた制止の声を聴いたのかもしれない。あるいはもっと卑俗な理由で生への衝動が突き上げてきたことも考えられる。ともあれ、現実に突き戻される経験をしたのだろう。寒い冬の午後、軽トラックで岬までやってきた男はそのまま軽トラごと海に飛び込むつもりだったが、祠の前に来たとき、何かが起こった・・・
一瞬たりとも形を留めることのない波しぶき、名も無き石工によって作られ人々の栄枯盛衰を見つめてきた石仏、地殻変動で隆起してよりこの方、悠久の時のなかで泰然と佇む岬、そこにやってきたトラック・・・それぞれが、まったく速さの異なる時間の中にありながら、ほんの刹那、なぜか同じ場所を共有している。「速い場所」とは「石仏(or岬/海)にとっての」速い場所なのだろうか?
ところが、海に見えたそれは、アルプス山脈のように地層の褶曲によってできた山である・・・ことがある瞬間分かった(そんな気がした)。私も仏様の声を聴いたのだろうか? それとも山の神様の声か? ただひとつ確信がもてるのは、男が現実に突き戻されたことを想像したのと、画面をみている"私"の存在に、他ならぬ私自身が違和感を抱いたのとが同じ瞬間の出来事である、ということだ。確信を足場にした途端、石仏だと思っていたそれが、まったく奇想天外な代物であることも否定できなくなってくる。そして、はじめから海ではなくて山だったのか? 海が山に変貌したのか? 山だと分かったのがそもそもの思いこみなのか?・・・ますます深みにはまり込んでゆく・・・
だが、引き返す軽トラが向かう先が、絵を見ている"私"がいる方向とは微妙にずれていることに、ささやかな安堵を覚えた。その安堵とは、別の見方をすればちょっとしたショックであると言い換えてもいい。それでも、ずれが残したショックのお蔭で"私"は遠い時の彼方で見た夢のことを思い出す幸運に恵まれた。あまりにもなつかしい夢のことを・・・
絵をみている間、私が生きている時間から、確かに私は引き離されているのだ。
田中作品を眺めたり、眺めていた時間のことを思い出していると、作家が思索した時間と私が思索した時間とが(どうにも説明できない様相で)交差するのではないか、という妙に昂揚した期待感にとりつかれる。それはたとえ不安なモチーフであったとしても、心地のいい妄想である。
制作の外側で作家が営んだであろう、存在と時間についての深い思索が窺えることに、おそらく異論はないだろう(そうは言っても、やはり画面から真っ先に感じられるのは、この上ない遊び心であるに違いない)。
個人的な好みをさらに付け加えて言えば、絵のタッチが1930年代、池袋モンパルナスのシュルレアリスム風なのも大変味わい深くていい。
しかし、そんな見た目の好みよりもなによりも、多くの人々が現実だと思っているもの(現前性)を掘り下げ、奥深く分け入ることでしか開かれえない強度の現実(真理といいうるなにものか)への通路を示す力が、遊び心とともに絵に込められていることこそが大きな魅力である。それは、現前性を自明視する人、そこに(居直るともなく)居直る人にとっての、いわゆる"現実味のなさ"であるのだが。
あるいは現実の、どうしようもない計り知れなさを思い知ることであるのかもしれない。
そのようになさしめる絵とは、まぎれもなく生きたシュルレアリスムであり、シュルレアリスムを美術史の序列から解放する機運とも呼応した、真に現実的な絵であるとはいえないだろうか。
2013年12月29日日曜日
池田友里展「Inner Vision」 於、gallery CLASS (奈良市旧市街)
作家とのマンツーマンフォトセッション"Inner Vision"。
暗いブラックキューブに設えられた作品から請い求められるのは、まぶたに焼き付いた光の残像を鑑賞すること、近づく者の姿をシャープに、しかしながら浅くしか映さない鏡面に映る、欠けた己を見つめること。
そこに、横たわる作家・・・。無言で、微動だにしない。
ある角度でカメラを構えると、光の輪が浮き上がる。
◆gallery CLASS 12/11~12/24
このパフォーマンスは12/28、20時頃に行われた。
2013年12月23日月曜日
詩「反り返りある凹面鏡」
泥の河に架かる屋根付き橋を渡りゆく黒い人の群れ
冬の朝鮮海峡を渡りゆく蝶番の大群
土筆の群落の地下浅くをうねる土龍の律動
にも似た窮屈さで まなじりを腐す
しずる夏の夜の 死にし神の面影にさきはわれ
欠けそめる咳の航跡に引き拓かれる 芋畑の憧れ
(二十三夜月の南中)
詩人・小島きみ子さんが拙詩に応答して制作してくださったドライフラワー「蝶番」。
◆小島きみ子個展「薔薇と詩歌句:Rose fantasy」 12/2~12/24 於、画廊喫茶「パンの花」
広瀬大志、松尾真由美、池田俊晴、京谷裕彰、池田康、久保園理恵、上野典子(現代詩)、廣田恵介(翻訳詩)、倖田祐水、東徹也、中村みゆき(短歌)、鈴木伸一(俳句)、大原鮎美(自由律)、13名の言語芸術家と小島きみ子さんの薔薇のドライフラワーアレンジとのコラボレーション展。もちろん、小島さんご自身の詩も。
2013年12月11日水曜日
藤井貞和さんから頂戴した色紙 (に、したためられた問い)
「レヴィ=ストロース氏が、
マジノ線でドイツ軍の攻撃を待ち受けながら、
そのとき私は(と氏の言う)
タンポポの花の丸い球をじっと眺めて、
この対象の奇蹟とも言いえるような規則的な構造について、
因果関係や、 歴史的な偶発事や、
あるいは各部分の単なる組み合わせを並べてみても、何にも説明できない、
というふうに考えたのでした。
美とは何か?」
貞和さんから大きな宿題を頂戴しました。
ずっと考えておりますが、心の中でひとまずの回答を試みるも、言葉の手前でするりと抜けていってしまいます。
それでもまた、今日も考えているのです。
マジノ線でドイツ軍の攻撃を待ち受けながら、
そのとき私は(と氏の言う)
タンポポの花の丸い球をじっと眺めて、
この対象の奇蹟とも言いえるような規則的な構造について、
因果関係や、 歴史的な偶発事や、
あるいは各部分の単なる組み合わせを並べてみても、何にも説明できない、
というふうに考えたのでした。
美とは何か?」
貞和さんから大きな宿題を頂戴しました。
ずっと考えておりますが、心の中でひとまずの回答を試みるも、言葉の手前でするりと抜けていってしまいます。
それでもまた、今日も考えているのです。
2013年12月7日土曜日
野田万里子展「HOPE」 於、TEZUKAYAMA GALLERY(大阪・南堀江)
野田さんが制作という営みの外側で日常的に考えていることと、制作の内側で考えていること、そして出来上がる作品との関係がどうなっているのか、野田作品に接する時いつも気になっていた。
静謐な佇まいとモチーフを稠密に反復するスタイルは、視覚的な印象批評においては誰もが言及する顕著な特徴としてあるのだが、それと対をなすように視覚の外側を流れる、強い思想性がある。そのことに注目し、その両者に張り詰められた接線を探求することが、野田作品を深く鑑賞する上での重要事ではないかと私は思っている。(そんなことをせずとも充分に楽しめる作品なのだが、ここは敢えて)
全体と個とが、また個と個とが共鳴すべく設えられたインスタレーションは、視覚的には説明性が希薄である。その一方で、「このように読み解いて欲しい」という、作家にとっての正解が存在する。
ゆえに、解釈の自由と正解とのはざまに立って、見ること、感じること、その直後から"考えること"が要請されるのだ。
だがしかし、視覚の外側にあるだけに、正解には辿り着けない(とはいえ、野田さんは知りたい人には包み隠さず語ってくれる)。それでも、鑑賞者の意志は正解へと惹きつけられ、惹きつけられる意志がある限りにおいて、正解へと近づくことはできる(はずだと信じられる)。
それは真理への到達不可能性をうすらうすらと覚知しながら、それでも到達への意志を持続させることでようやく"希望"がひらかれる、そんな営みと相似的なのだ。
だとすると、その論理に気づくことがひとまずの正解である、と言ってもあながち誤りではなかろう。
意志と、意志を惹きつけるもの・・・
インスタレーションとテキストとの関係から、〈見える〉と〈見えない〉、感性と理性、全体性と無限、などなど・・・、
野田さんの作品が投げかける、対極性への、あるいは関係性への問いは、古今の哲学的な問題系との通路をゆっくりと顕現させてくれる。
そこで提示される美学のあり方には、今この時代において、何か大きな可能性が秘められているのではないか、そんな期待感が湧き起こった。
それはたしかに、"希望 HOPE"といいうるなにがしかであるのだろう。
◆TEZUKAYAMA GALLERY 11/23~12/21
三尾あすか・あづち展「Re born」 於、ondo (大阪・土佐堀)
"Day Dreaming"(2013)
双子の姉妹、あすかさんとあづちさんは、四本の腕と四本の脚、そして四つの眼で絵を描く。
そこにある複数性、そして「双子だから」と同種的にまなざしてしまう視線を美事に裏切ってくれる異種交雑性が、新たに加わった油彩画という方法によって以前にも増してはっきりと窺えるようになった。
画面に描かれるニョロニョロのような、おばけのようなおなじみのキャラクターたちは、
時空をかたどるいくつもの支持体を横断するように、わずかな差異を伴いながら、そこかしこに顔を出す。
ここではないどこかからやってきて、未だ見知らぬどこかへと移り去って行く。
その姿は、それと気づかぬうちに生まれ変わる私たちの姿と、ときに重なり合い、映し合い、響き合い、そして行き違う。
"彼女"であり、"彼女たち"であるような、
"私"であり、"私たち"でもあるような、
あるいは、
"誰"でもないが、"誰か"でしかないようなあり方で・・・。
◆gallery & product "ondo" 12/5~12/27
2013年12月2日月曜日
仲摩洋一展 ―inside the forest― 於、コンテンポラリーアートギャラリーZone (箕面・桜井市場)
そこに広がるのは、まぎれもない風景である。
だが、それがいかなる風景であるのかは自明ではない。
足を運ぶ、佇む、見る、(タイトルやステイトメントを)読む、という行為を通じてそれが森を描いた風景であることがゆっくりと明らかになる。
モチーフは、とある原生林だという。
仲摩さんは森の中を歩き回って写真を撮り、アトリエに帰りついた後から時間をかけてドローイングを重ね、そしてタブロー(油彩)に仕上げてゆくそのプロセスをとても丁寧に考えている。
だからこそ、モチーフを採取する場と制作する場、という隔たる空間や時間の間(あいだ)に、作家の意識や無意識を通じた何かがこもってゆくのだろう。
鑑賞者の意識が入り込むのも、もちろんこの"間(あいだ)"である。
作品の前に立つことが、森の中に立つ、ことを意味する"inside the forest"(2013)。水面に映り込んだ森を描いた120号の大判タブロー"water mirror"(2013)。鏡像を通じて開示される存在を示唆しているのだろう。
そこに私が"いる"ということ、目の前に絵が"ある"ということ。
存在への問いはここからはじまる。
絵の前に立ち、それを絵として対象化することは、すなわち世界を対象化することである。ここでいう世界とは、人間存在を取りまく外部世界であると同時に、絵の中に世界を見出し、見通す作家や鑑賞者の内面世界でもあるのだ。
ゆえに、森に流れる空気や射し込む光といった現象を描くことは、とりもなおさず世界内に生起する様々な現象に私たちの思惟を結びつける象徴を描くことへと転位する。にもかかわらず、それとひと目でわかる象徴的な図像が描かれているわけではない。
そんな仲摩さんの作品はどれも、タイトルが重要な意味を持っていることがすぐに理解できるのだが、ここでヤスパースの哲学に水先案内を依頼するならば、深遠さを象徴する森とは存在の暗がりを、作品に付けられたタイトル(言葉)は暗がりに光を照らす理性を表していると解釈することができる。
そうして"water mirror"から光を照り返された私は、絵の前で"問い"を発する私の存在、その内奥にある実存の闇に光を当てることを促されてしまうのだ。
このように幾つかの段階を踏まえ鑑賞者の実存をも照射する力がある光の表象、というのは大きな魅力である。この光の表象をめぐっては、印象派の多くが瞬間の光を捉えるのに対し、仲摩さんの絵においては、持続する時間がキャンバスにつなぎ止められている。それは具象的モチーフが写真や紙を経てキャンバス上で抽象的に溶けてゆく、その制作に要する時間の中でつなぎ止められる持続なのだろう。
なるほど、私たちは何かを対象として把握し、思惟し、認識しようと努める時、かならず時間の中で遂行するほかないのだという真理に至りつく。
つなぎ止められた時間の持続は、表象された光によって絵画本来の力へと変換されるのだろう。
◆コンテンポラリーアートギャラリーZone 11/23~12/5
"water mirror"(2011)
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