世に団地マニアというのがいるらしい。
1950年代~70年代にかけて郊外などに建設された団地を、その建築や設計思想の中に時代の実験精神や人々の憧れやらをみたり、そこからさらに歴史・文化・技術などの研究素材として捉えるものから、寂れ具合をもふくむノスタルジックなオブジェとして鑑賞するもの、廃墟マニアとの境界線上にあるものまでさまざまであるが、そこに団地への深い愛があるということが共通の要素であるように見受けられる。
僕もこの10年、団地に住んでおり、ここが一番居住歴の長い場所になっているので愛着は深い。
僕の関心は当然住人としての生活に根ざしたものもあるのだが、今はもっぱら社会学的、文学的な方面(文学の舞台としての住まい・住まい方についての関心)から団地への関心が向いているので、その方面からいろいろ文献を漁っているのだが、なかにはヘンなものが多くて辟易することも・・・。
そんな中、一番面白く意義深く思えたのが原武史・重松清『団地の時代』(2010.6,新潮選書)で、とりわけ万人にお薦めしたいのはこれかなと。原武史が1962年生まれで東京郊外の団地育ち、重松清が1963年生まれで西日本の地方都市を転々とする少年時代を送った経験があり、同世代のお二人が自分史をたどりながら団地にまつわる様々な話題を縦横に語るという対談本。
団地ガイドブックとして手元において便利なのが『〈洋泉社ムック〉僕たちの大好きな団地 ~あのころ、団地はピカピカに新しかった!』(2007年,洋泉社)。これは表紙のキャッチコピーに「『三丁目の夕陽』の時代に華やかに登場した団地の数々を、豊富な写真とともに紹介!憧れだった昭和30年代の団地へ、会いに行きませんか?」などと付せられているように、団地マニアによる編集なのでバカっぽさもあるがこの程度ならご愛敬も許容範囲内である。団地建築にまつわる基礎的な知識は網羅されており、原武史ら硬派な人の寄稿もある。
ただ、多くの団地本の論調は「老朽化」による建て替えが時代の流れで仕方がない、惜しいが嘆くしかないといった自然現象のように捉えていて、強制建て替え、強制立ち退きの問題や、公団側が潰して高級マンションにかえる意図で敢えて募集停止をかけている問題など、陰謀めいた裏があることなどについて問題意識が皆無なのがムカツク(意図的募集停止といえば、数年前取り壊しになった泉北ニュータウンのヤングタウンなる家賃一万円台の単身者用団地などはちゃんと宣伝すればワーキングプアの若者で賑やかになったはず)。みるにたえないバカクソ本も少なくない(例えば石本馨『団地巡礼』〈2008年,二見書房〉など。しかし石本も団地や廃墟への愛は人一倍強いので、写真つき読み物としてはバカクソ本とまでは言い過ぎかもしれない)。
取り壊しの背景には高度成長期の突貫工事による手抜きや塩分を洗浄しない海砂を使ったコンクリートを使っているために中の鉄筋が錆びて安全上の問題という観点でなされる場合もあるが、それにしても実際、50年代60年代の古い団地などは住人が減り、自治会活動が脆弱なところから取り壊しのターゲットにされてきた。僕の住んでいるところなどは問題は多いながらも自治会がそれなりの強さを保っているので取り壊しの対象からは外れているし、補修や植栽の手入れなどはかなり手厚い。但し植栽の手入れなどは「不審者が隠れる場所をつくらない」などというセキュリティ思想を全面に押し出した過剰な剪定・伐採のため、住人同士の間に猜疑心が生じたり、真夏の団地内の気温が上昇するなど、住人の頭ごなしでなされる手入れが多くてうっとおしいといった問題があったりするのだが・・・。
その他、天下りの巣窟である公団が勝手に民営化して「UR都市機構」になり、さらに金儲け体質を強めたとかの問題もある。
住人の立場からすると、こんな古い団地に住んでやっているのだから家賃を大幅に下げろ、といいたい。みんなそう思っているはずなのになぜかいわない(自治会は家賃値下げをいつも交渉の議題にしているが)。
建て替え問題については、分譲団地であってもローンを払い終えた住人の多くが不在地主化しているため、実際に住んでいる店子の頭越しに「多数決」で勝手に立て替えを決めてしまい、残った住人が追い出された千里ニュータウンの桃山台団地の例などもある。もちろん最後まで残って行政代執行に抵抗したのはローンを払い終えてそこを終の棲家と決めた人々である。
この桃山台団地の事例については中村葉子監督のドキュメンタリー映画『空っ風 ~RCの陰謀』に詳しい。
団地のことをもし戦後の生活史にからめて考えてみたいのなら、花森安治『一銭五厘の旗』(1971年,暮らしの手帖社)や『暮らしの手帖』バックナンバーなどと併せて読むのもいいかもしれない。
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