2011年1月30日日曜日

Live Meeting of Poetry&Action 於スタジオ・ワルハラ(奈良)

昨夜ワルハラで開催されたポエアク、大盛況でした!

ハラミイシカズコさんの「改竄・白雪姫」。全編暗唱によるストーリーテリングでした。ハラミイシさん制作の衣装を着た後ろ姿はうんこ詩人。

塚本佳紹(つかもとよしつぐ)さん。左にOHP、右に映写機。右端にはコーヒーを淹れるためのコンロとポット。

マットに描かれた模様がOHPを通じてスクリーンに投射されます。

そこにスプレーやらよく分からない液体などを噴射したり流したりして模様を変化させます。


ミルで挽いたコーヒーをドリップすると、スクリーンには茶色い模様が拡がります。 


映写機が映し出す映像。デジカメだと残像現象でミミズのように映ってしまいました。映写機にも何か液体を噴射していました。

感熱紙にアイロンでドローイング。



亜子米さん

ステージ上には懐中電灯が取り残され・・・。

うなてたけしの笛の音をバックに、小さな鈴を無数に付けた糸を、会場に張り巡らせてゆきます。鈴は星、糸によって結び合わされた人々は星座を表しているのでしょうか。




大橋範子さん。百合の花とガラス板を使ったパフォーマンス。

花を食べています。

ガラス板で額を切るのではないか、ガラス板を粉々に割り砕くのではないか、といった緊張感が持続するパフォでした(結局、血は流れずガラスも割れず)。

須川映治さんのポエトリーリーディング。


machi/さん。カットした自分の毛髪を容器に詰め込んだものを透明テープで顔にグルグル巻き付けて行きます。窒息死するんじゃないかという勢いでした。




腕と顔をテープで固定したまま、そのテープを会場全体に張り巡らしています。


うなぎ亭すりん(うなてたけし・左)とあなご亭もやし(右)による大道芸風のパフォ。狸が猿回しをやっているみたいでした。もちろんうなぎ亭が狸です。

のりまきのりぺーさんの写真はなぜかありません(失礼しました)。


で、私は須川さんの後、machi/さんの前に出演したのですが、残念ながらパフォーマンスの写真がありません。
まずはこのように瀧口修造の「絶対への接吻」を黒で、金子光晴の「蛾」を赤で印刷したペーパーを出演直前に配布。
そして会場入り口付近に設置したカセットデッキでP・B・シェリーの「Prometheus Unbound(鎖を解かれたプロメテウス)」の朗読テープをバックグラウンドポエトリーとして流しながら、瀧口「絶対への接吻」を、ステージ左端に設置したマイクで朗読しました(マイクのスピーカーはスクリーン脇)。ところどころキレのいい箇所でマイクを置いて歩きながら地声で自作詩の断章を絶叫し、またマイクに戻って瀧口をボソボソと読む、というパフォーマンスでした。瀧口の詩を読み終える頃、シェリーの詩も終わる、という次第です。

ペーパーには朗読する詩(瀧口)と朗読しない詩(金子)をテキストで表示し、一方でテキストの配布がないシェリーの朗読テープを流し、そして予告もしていなかった自作詩を即興的・間歇的に入れることで、形式的にもビジュアル的にも全く異質な複数の詩を時間的にも空間的にも共存させてみること、これが今回やってみたかった実験でした。
実は異質に見える複数の詩が、その理想としているもの、思想を共有していることが僕の中の前提としてあったのですが、それがうまくいったのかどうか・・・。
個人的には満足で、また観客の反響も上々でしたので、とりあえず成功ということにしておきましょう(笑)。




2011年1月29日土曜日

今日(1/29)、ポエアクに出演します!そして塚本佳紹さんへのオマージュ

大橋範子さんと亜子米さん主催のポエトリー&アクション、いよいよです!

さて、そのポエアクにはNAPグループ展で「愛と表面張力」というインスタレーションを出品して注目を集めた塚本佳紹さんが出演します。そして映像作家で批評家でうんこ詩人の竹村正人氏が「おかばあのぶろぐ」で塚本さんへのオマージュを書きました。

素晴らしいテキストなので、ぜひお読みください。

竹村正人「愛は表面に張りてきみを濡らす」


◆塚本佳紹「愛と表面張力」(奈良アートプロム・グループ展,於カイナラタクシービル,2010.10)


この踊り場での展示は会期の途中でプロジェクターを使ったものに変更されます(画像なし)。














※以上の写真はすべて亰彌齋が撮影。画像をクリックすると拡大します。

2011年1月28日金曜日

展覧会スケジュール(2月)

最近、たくさんの作家さんから展覧会のお知らせが届くようになりました。ありがとうございます。
その中で個人的に注目している展覧会のスケジュールを覚え書きとして。

◆1/31- 2/12 「 スーパー絵画  VOL.3」
車史曖・中井幸子・春菜・藤川奈苗・星川あすか・山内亮

◆2/14- 2/26「 陶芸の提案2011」(テキスト/中谷至宏)
板野久美子・一色智登世・大橋かえで・奥野信生・金理有・甲田千晴・高間智子・谷内薫・増田敏也・ 山本朱

以上、ギャラリー白/白3 (大阪・西天満/日曜休廊)

◆ 「大阪芸術大学大学院2010年度修了作品展」・・・・・・福森創さんが出品されます。
・学内展:1/31-2/4   大阪芸術大学芸術情報センター1F展示ホール
    アクセス(http://www.grad.osaka-geidai.ac.jp/map/index.html
・学外展:2/23~2/27
    アートコートギャラリー (大阪・天満橋)
    アクセス(http://www.artcourtgallery.com/access.html

◆2/1-2/13 SYSYTEMA GALLERY(大阪・北堀江)オープン記念企画「現代美術 選抜招待展」・・・・・・山田七菜子さんが出品されます。(月曜休廊)

◆2/11-2/23 (2/17休廊) 「ナカタニユミコ個展 トレーシング カラーズ」 藝育カフェSANKAKU (奈良)

======既に開催中の展覧会
◆1/18-3/9(日・月・祝、休館) ニコール・シュミット、softpad、intext、八木良太、藤本由紀夫「phono/graph -音・文字・グラフィック」 dddギャラリー (大阪・南堀江) 

2011年1月27日木曜日

『紫陽』23号、出来!

『紫陽』23号は本日発送を終えました。
今号の編集後記では、〈不和〉を起点に〈実存〉へと至る思索を通じて〈美学的な思考の体制〉を脱構築することについて、哲学詩を書くような気持ちで書きました。優れた作品が集まり、そして満足のゆく編集が出来たことで、編集後記にはここ数年詩誌を出すという実践の中で考えていたことのエッセンスを凝縮できました。
寄稿者は第50回短歌研究新人賞の吉岡太朗(歌誌『町』同人)、オルタ界で注目を集めるオカバー店員・竹村正人(うんこ詩人)、アート界の仙人・ダダカン(糸井貫二)、大阪ダルク代表で行為芸術家の倉田めば、第33回泉鏡花文学賞の寮美千子ら錚々たる顔ぶれですが、有名無名を問わず、ここに集う異質な表現者たちの作品が群として躍動する誌面に目を落とせば、既存の美学的基準を揺さぶるようなポテンシャルを感じられるでしょう。そして今号でもっとも特筆すべきは寮さんのご尽力で奈良少年刑務所に服役中の少年の詩を掲載できたことです。
23号は自信を持ってお薦めできるクォリティです。




(クリックすると拡大→冒頭部分が読めます)



寄稿者:吉岡太朗、藤井わらび、竹村正人/駄々村、志郎、ダダカン(糸井貫二)、三刀月ユキ、佐藤佳紀、金子忠政、佐藤駿司、松本タタ、倉田めば、風梨子、北山兵吉、亰彌齋、りー、あおい満月、武中光男、X、寮美千子、鈴川ゆかり

見返しの言葉:シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』より

表紙コラージュ:藤井わらび



発行:紫陽の会  

A5判56頁  頒価:200円

購読のご希望、お問い合わせはfreiden22◎hotmail.com (◎→@に)まで。

2011年1月23日日曜日

『紫陽』23号、本日製本完了。




今回は素晴らしい作品が集まり、また、納得のいく編集ができました。どうぞご期待ください。



2011年1月20日木曜日

麻生三郎展 (京都国立近代美術館,ギャラリー鉄斎堂)

 今、池袋モンパルナスの画家・麻生三郎(1913-2000)の本格的な回顧展が京都国立近代美術館で開催されています。
愚かで罪深く、そして愛おしくもある人間という存在の根源を、徹底して見つめ続けた作家の実存的な画業を見渡す上で、またとない機会でした。

僕にとっては、愛すべき池袋モンパルナス※の愉快な仲間たちがどんな絵を描ていたのかがずっと関心事としてあったので、その主要人物の一人である麻生の作家人生を作品に沿ってなぞることができたのは大きなよろこびです。(※昭和戦前期に池袋にあった大規模なアトリエ村を中心に形成された芸術家たちのコミューン。詩人小熊秀雄が命名)

カバーが破れ背も折れてぼろぼろになるまで愛読している宇佐美承『池袋モンパルナス』(1995,集英社文庫・初版1990)から、麻生の人物像に関する記述を抜粋してみましょう。

「池袋モンパルナスの前衛たちは、律儀な吉井(忠)をのぞけば決して行儀がいいとはいえぬ者たちであった。なかのひとり麻生三郎は戦後に武蔵野美術大学教授になった人だが、かれこそいちばんの暴れん坊かもしれなかった。
麻生は美校の入学試験に落ちて太平洋美術学校に学んだのだが、しばしば酒で乱れた。酔えば奇声をあげて友だちのアトリエの戸を叩きつづけた。屋台をひっくり返したり、やくざにからんでピストルで脅されたり、懇親会で暴れて首をしめられ、気を失ったりしていた。舶来の画材が手に入りにくくなったころ、寺田政明からフランス製のペインティング・オイルを“どうじゃ、ほしいか”とこれみよがしにみせつけられて怒り心頭に発し、杖をふりまわして奪いとるや、やにわに地面にたたきつけて瓶を割ったこともあった。麻生は、どこへいくにもアルミニュームの弁当箱をふろ敷にまいて腰にくくりつけていた。かれは貧乏ゆすりの癖があったから、仲間といっしょに畑の大根を失敬するなど小さな悪事を働くとき、いつもその弁当箱がカタカタと音をたてて、みなをあわてさせた。
そんな麻生であっても、友はみなその絵に敬意を払っていた。物と事と人を凝視するこの人の絵には、描き手の精神の苦渋がにじみ出ていて人間臭く哲学的であった。
ただひとり江戸っ子だったことも、仲間から一目おかれる理由のひとつだった。(中略)東京の下町そだちがしばしばそうであるように、麻生もまたたいへんな照れ性であった。そのような人は道を求めているとき、あるいは求めてつまずいたとき、決してそれを口外せず、かわりに常軌を逸した行動にでるものである。いちどは喧嘩をせねば仲よくなれぬこともある。そうした麻生にある都会人の香りを、田舎からでてきた者たちは羨望するのだった。」(文庫版422~423頁)

面白いですね。

残念ながら、池袋モンパルナスに住んでいた1930年代~終戦前までの作品の大半は空襲で消失したため、その時期の作品で今回展示されていたものは少数でした。

麻生の回顧展が実現したのだから、寺田政明(小熊秀雄の親友で俳優・寺田農の父)の本格的な回顧展を企画するキュレーターがでてこないものか、と首を長くして待つことにします。

因みに寺田政明展は最近では2008年の夏に「新池袋モンパルナス・西口まちかど回遊美術館」の一環として東武百貨店で小規模なものが開催されたようですが行けませんでした。その2週間前に池袋モンパルナスのアトリエ村跡地をうんこ詩人とフィールドワークしたのに、タイミングが悪く・・・。

他に池袋モンパルナスゆかりの作家といえば、彫刻家・佐藤忠良の回顧展を世田谷美術館がやっていますが、関西にも巡回してくるので楽しみですね。うちの近所の駅前にも佐藤の作品が設置されているので、実はなじみ深い作家でもあるのです。





京都国立近代美術館「麻生三郎展」(2/20まで/2月に一部展示替えがあります)
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2010/384.html

また、新門前通東大路通を西に入ったところにあるギャラリー鉄斎堂でもこの企画に合わせて所蔵している麻生のデッサンとタブロー40点余りを展示しています(1970年代の作品が中心)。こちらもぜひ。




ギャラリー鉄斎堂(2/27まで)  
 http://www.tessaido.co.jp/


追記。河津聖恵さんがブログで素晴らしいレビューを書いています。
http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/01/post-e75d.html

2011年1月17日月曜日

道北英治展  於、ギャラリー勇齋(奈良)

昨日は奈良市旧市街にあるギャラリー勇齋で開催されている道北英治(みちきたえいじ)さんの個展に行ってきました。


四つのパーツからなるブロンズのオブジェ。

これは先のと同じ型から鋳造したもので組み方を変えています。ぱっと見たところ不安定に思えますが、実はしっかりとバランスがとれています。

黒御影石の作品。

上に載っている小さい石は回転させても落ちません。

これは四つのパーツからなるブロンズのミニチュアで、やはり全て同じ型から鋳造したもの。

赤っぽいのと緑っぽいのと、表面の錆の風合いは二種類ありました。
 
手にとって積み木のように遊べるミニチュア(これも同じ鋳型から)。小さいのにずっしりと重かったです。

ほろ酔いでも簡単に組めました。楽しい!


廊下に展示されていた赤御影石のオブジェ。これは採石場で得た端材を使ったものだそうです。下の写真はこの上方壁面に掛けられているもの。




森羅万象、世界の様々な現象に通奏するものを抽出したかのようなミニマルなオブジェをエレメントとし、それらを組み合わせることで形をつくる道北さんの作品は、素材、形象、ともにシンプリシティが極められたものであるからこそ、見る者があらかじめ持っているビジョンと自然に融和融合し、多様なイメージの結像と解釈を可能にします。作品が発するアウラが、実に穏やかでさりげなく意識へと浸透していくことが心地よく感じられる、至福の時間を過ごすことが出来ました。
それらのオブジェは特定の思想、特定のコンセプト、特定のイメージといったものを抽象化して提示したものではありません。そしてそれは、閉塞した現代社会で日々生きざるをえない僕らが何かを表現しようとする際、時に否応なくまとわりつかせてしまう性急さ、拙速さ、粗忽さといったものとの妥協や折り合いなどというものが一切みられません。
そのような芸術がいかにして可能になったのか?そんな問いかけが心に深く落ちていきました。


今回の個展でメインとなっているブロンズという素材は、ずっと石にこだわりつづけてきた道北さんにとっても新しい挑戦だったといいますが、それは少なくとも僕のような素人の立場からすれば、立体抽象という一般には馴染みにくいとされるジャンルへの先入観を崩す効果があったことは確かです。
また、こうも思いました。具象芸術は一般にわかりやすい、取っつきやすい、と思われがちですが、見る者一人一人に固有な世界観に自然に浸透していくアウラを静かに放出する道北さんの抽象芸術は、しばしば作家の世界観がストレートに表現されるがゆえに作品世界に入り込みにくいある種の具象芸術よりも、むしろ親しみやすいのではないかと。

展覧会にタイトルもなければ作品にもタイトルはない、全てが無題ということの意味はとてつもなく広く、深く、大きい。作品一つ一つの印象も含めて、今回の個展からは禅的なものを感じました(それはこの瞬間もずっと余韻として響いています)。

歴史における時間の多層性を明らかにしたのはアナール学派の歴史家フェルナン・ブローデルでしたが(「長期持続」)、道北さんの芸術は、悠久の時間が育んだ鉱物という素材、長い作家生活で培われた技術や思想、そして日々流転する自然や世界の様相とそれに感応する作家の感性、そういった多層的な時間が結び合うなかで彫琢されたものなのでしょう。そこには美とともに崇高さもまた凛としてあります。
30年以上もの長きにわたり、特定の素材にこだわりながらオブジェというものをシンプルに考え、そして地道に、ぶれずに制作を続けてこられたからこそ到り得た境地であることを思うと、深い尊敬の念が湧き起こってきます。

誰であっても、ここに来てこれらのオブジェと時空を共有すれば、何かが開けるのではないか、そんな風に思いました。表現ジャンルの如何を問わず、若い作家にはぜひとも足を運んで欲しい展覧会です。





ギャラリー勇齋にて、1/23(日)まで。