2013年1月22日火曜日

 芸術における現実性の強度 ~展覧会「溶ける魚 つづきの現実」に

超現実主義とも訳されるシュルレアリスムsurréalismeとは、第一次世界大戦後1920年代~30年代にかけてヨーロッパで起こり世界中に広がっていった20世紀最大の芸術運動であり、その思想であることは周知の事実である。詩人アンドレ・ブルトンの呼び掛けに同世代の詩人や造形芸術家たちが呼応することでそれは成し遂げられた。
シュルレアリスムの代表的な方法に〈オートマティスム(自動記述)〉があるが、それは方法の発明ではなく、創造というのは程度の違いはあれオートマティックになされるものである、ということの発見であった。
口述にしろ、文章を書くにしろ、デッサンを描くにしろ、予め用意することなしに自動的に手や口が動くものから計画的にことを進めるものまで、その度合いの違いには境界線などはなく、ただグラデーションがあるだけである。
夢や狂気を擁護したブルトンらはオートマティスム(自動記述)を、ジクムント・フロイトが精神分析において開示した〈無意識〉の領域にアプローチする手段として実験したのであった。

ところで〈無意識〉とは端的に言うと〈実存の闇〉のことにほかならず、それ以外のなにものでもない。フロイトの精神分析が、同時代において批判したカール・ヤスパースや68年以降頭角を現したドゥルーズ=ガタリによって乗り越えられたとて、フロイトの言う〈無意識〉という概念が無効になったわけではない。単にそれを把捉する仕方がより深化し、通路が多様化しただけのことである。ここでは、〈実存〉が課題として浮上するということを心に留めておこう。〈実存〉とは、ヤスパースやメルロ=ポンティ、あるいはレヴィナスがいうニュアンスでの〈実存〉、つまり人間の無意識の内奥にある訳の分からないものでありながら、状況の中で(ときに愚かさを伴ったりもする)自己の思考や行動を司っているものを、〈向き合う〉という主体的な位相において捉える概念である、と理解していただきたい。

さて、ブルトンらが実験的に示したオートマティスム(自動記述)やエルンストがコラージュによって示した異質なイメージ同士を組み合わせるデペイズマンなどの〈方法〉は、マルセル・デュシャンが示した〈あり方〉と同様、現代美術の原基としてそれ以後今に至るまで否定のしようもなく展開しており、これからも展開していくはずである。さらには運動としての起源や展開を異にするアブストラクト(抽象)もまた、方法においてシュルレアリスムと共通する要素を少なからずもっている。

つまり、〈現代美術〉と括られるジャンルの芸術は、程度の大小や自覚の有無、思想の深浅があるとはいえ、大半のものが何かしらの意味でシュルレアリスム的であると言っても、過言ではない。

ブルトン自身はロシアの革命家トロツキーと交流したり、つねに政治情勢と対峙したステイトメントを発表するなど「政治的」であったことは有名であるが、運動に参加した者たちの多くも、第二次大戦のナチ占領下でレジスタンスを展開するなどそれぞれに「政治的」であった。それは彼らが政治と美学の不可分性を深く自覚していたからである。シュルレアリスムを〈運動〉と位置付けたことからも、それは窺える。
そこで考えねばならないのは、表現者が作品を他者へと差し向けるという行為は他者の感性を巻き込むことで遂行される、ということである。作品が他者へと差し向けられるとき、受け手は共感であったり反感であったり無視であったりと、何らかの感性的な反応を否応なしに引き起こす。その時、さまざまな美学を条件付けている秩序や規準に何かが触れるのだ。通常、美学の秩序や規準が揺さぶられたり、亀裂が入ったりすることに期待して私は作品を探し求め、そして向かい合うのであるが、そのような作品と出会ったときに揺さぶられるものは何も美術アカデミズムやジャーナリズムを条件付けている権威的な秩序に限らない。〈いい〉〈わるい〉〈美しい〉〈醜い〉〈面白い〉〈面白くない〉といった、我々が作品に知覚を晒す際に下す美的・趣味的判断の規準をも揺さぶるのである。揺さぶりの力には、ラディカルなものから揺さぶりというには大げさなほど予定調和的なものまで、力のグラデーションがあるにすぎない。
ジャック・ランシエールはこのように芸術作品であれ、言論による主張であれ、人が何かを表現し、他者に差し向ける際、受け手の感性が巻き込まれる中で生じるものを〈政治〉と呼び、その構造を解き明かしたわけである(『不和、あるいは了解なき了解』『感性的なもののパルタージュ』)。具体的には、ある作品やある発言を「それは政治的だ」と言って非難する者がいたとして、そのような非難すらもが政治的であることからは決して免れえない、という事実を思索の糸口にしていただければ分かりやすいだろうか。
芸術の場合、作品が及ぼすイメージが剥き出しであるか直示的であるか変成的であるかの違いや、テーマが世俗的な意味で「政治的」であるか否かを問わず、表現者の自覚の有無は作品(作者の真実の結晶)の現実への波及力、作品のもつ現実性に関わってくる。その力とは、換言すると、物事にはつねに別の見方があることを、見る者に提示する力のことである。その力が漲る作品に出会うと、我々の感性は強く肯定的な揺さぶりを感じる。そこには、いわゆるファインアートであるか、繊細な心を保護する壁を重視するフェティッシュアートであるかの別はない。したがって、美学の規準を揺さぶる力の有無は〈芸術作品の現実性〉と関わっている、とひとまずは言っていいと思っている。
つまるところ、表現者が政治と美学との不可分性を自覚しうるか否かは、各自の実存への志向性に関わっているといって差し支えないのではないか。
また芸術作品の現実性について考える上で、ハイデガーが『芸術作品の根源』において展開した議論も参照すべきであろう。ハイデガーは、心や感性に瞬間的にでも擦過を残すもののことを〈衝撃〉と呼び、芸術作品は〈衝撃〉として作用してのみ現実性を持つ、と主張した。存在が唯一無二の仕方で開示されるという非日常的な出来事として自らを表現するような作品こそが現実的であり、その唯一無二の事実性を明確に開示し、それによって存在するものそのものに対する不気味で途方もないパースペクティブを開くような作品のみが現実性という概念に期待される、と。ハイデガーの論考は取り扱いに注意が必要であるし、「現実」という言葉を使用するときに生じる位相の違いにはその都度注意が必要ではあるが、先のランシエールの議論とも重なりをもっている。

前置きが非常に長くなってしまったが、シュルレアリスムとは、本来、〈強度の現実-シュルレエルsurréel〉を志向する思想を意味するものであり、現代美術においてシュルレアリスムを意識するということは、この現実性の強度を高めるということをおいてほかにない。〈強度の現実〉とは、現実を超えた領域へと想念や思考を飛翔させることによって逆説的に得られる現実感覚のことである。
以上のことを念頭において、グループ展「溶ける魚 つづきの現実」を鑑賞するとどうであったか。

展覧会タイトルにある「溶ける魚」とはブルトンがオートマティスムによって制作した散文詩のタイトルであるが、今回の作家主導の企画は衣川泰典さんと高木智広さんの二人が、第一次世界大戦後の荒廃した時代背景とシュルレアリスム運動の勃興という関係性をアクチュアルに捉え直し、現在の日本の社会状況の中で芸術活動を営むことの現実性と向き合う中で生まれたものである。
主催者は普段シュルレアリスムを意識して制作してはいない作家たちを敢えて選び、作家たちにシュルレアリスムと向き合う機会を提供した。そうして作家たちは、作品制作とともにシュルレアリスムについての文章をも作成することになった。主催者の二人もまた、これまでシュルレアリスムを特別意識していた訳ではないという。

会場で配布される、主催者二人による展覧会趣旨文(ステイトメント)にはこう書いてある、
現実から遊離・逃避した空想や幻想でもなく、かといって現実そのものの是認や肯定、複製でもありません
展覧会タイトルの「つづきの現実」という言葉には、作品が立つべき位置の理想を託しました。作家自らが精神の内奥を見つめ、そこから汲み上げた何かに形を与えた表現として、作品を通じて「つづきの現実」を提示することが本展の大きな狙いです。
引用した一文目で言われる「現実」とは、〈現前性の形而上学〉としてのもっとも素朴なニュアンスでの「現実」であるが、あくまで立脚点は〈現実〉である。そして引用した二文目の「つづきの現実」にまつわるくだりを読めば、「つづきの現実」なるものが〈強度の現実surréel〉としてのシュルレアリスムを指していることは明かだろう。さらに注目すべきは、作家各自の〈実存への志向〉が謳われている点である。

このステイトメントに参加作家がどう呼応したかが見所なのだが、ひとつひとつの作品を見て、また一人ひとりが書いた文章をじっくりと読むことで分かるのは、どの作家も、シュルレアリスムを意識する機会を得たことで、自らの表現の内側に脈々と流れ込んでいるシュルレアリスム性に多かれ少なかれ気づき、否応なく向き合う羽目になったことである。この否応なさは、作品を鑑賞する上での鍵になるかもしれない。

とはいえ、主催者二人の、また参加作家個々の文章を読まなければ、優れた現代美術家たちが集うグループ展としては楽しめても(それでも充分に素敵なこと!)、なぜ今シュルレアリスムなのか?何が展覧会の狙いなのかを明確に理解することは難しいだろう(それはシュルレアリスムが現代美術の原基であることの裏返しである)。そうなると、ある人にとっては特定の作家の作品を個別に鑑賞する機会にしかならないだろうし、無理解や誤解から生まれる的外れな批判や不当な非難が噴出することもあろうが、これは主催者の責任ではない。またシュルレアリスムの主題を読みとれないからといって、観客を問題視しているわけでもない。シュルレアリスムが理解できなくとも現代美術を楽しめるよう、主催者が敢えてそのようにコンセプトをゆるく設定しているからである。

実のところこの展覧会は、観客の、作品を見る目が問われているのではないか。どのような視点で、いかなる枠組みを通して作品を見るのか、その視点の刷新が賭けられているようにも思える。
見る側がこのことに気付くならば、かつてのシュルレアリスム運動と21世紀10年代の現代美術との距離を測る恰好の機会になるはずである。さらにいうと、この展覧会を見た人の反応さえもが、距離を測る素材になりうるということだ。
ここから見えてくるものは、私たちに多くの課題を投げかけてくれることに違いない。

そして作家たちがこの展覧会を経験することで、今後、作品や制作行為そのものが現実性を増すこと、その強度を高めてゆくことに期待感が膨らむ。現代美術家が〈強度の現実surréel〉としてのシュルレアリスムに気付くことで得られる力には、計り知れないものがあるからだ。
作家個々人の中に、かつてのシュルレアリスム運動に内在していたものと同質か、あるいはそれ以上のラディカリズムを自らの内面に呼び覚ますよすがが生まれれば、それは大いなる成果だといえるだろう。

現実への対峙と実存への志向性、それを21世紀10年代の今、作家主導のグループ展企画で宣言したこと、これこそが「溶ける魚 つづきの現実」の意義として強調すべきことだと私は思っている。
それに応答していくのは、ここに立ち会った一人一人である。作家たちは自らを安全な圏域において語ることをしていない以上、この誠実な態度に面しては、受け手の側も語りのポジションを安全な圏域に置かないことが応答の倫理として要請されるのだから。
これが新たな芸術運動への触媒となるか、あだ花となるかは、私たちにかかっている。


荒木由香里さんの立体作品「Blue」(フロア)、「White」(奥右)、「Red」(奥左)。奥の壁に掛かるのは衣川泰典さんの連作「記憶のかけら」。
衣川泰典さん「スクラップブックのような絵画#7 (無人の風景Ⅱ)」
髑髏に船虫がたかる満田晴穂さん「晩餐」(手前)と、松山賢さんの連作「絵の具の絵」(奥)。
高木智広さん「落鳥の森」。
花岡伸宏さんの作品群。
藤井健仁さんの作品群。
(以上、ギャラリー・フロールでの展示風景)
木村了子さんと安喜万佐子さんによるコラボレーション「君がいた海景」。
麥生田兵吾さんの作品群。
(ギャラリーPARCでの展示風景)

「溶ける魚 つづきの現実」 京都精華大学GALLERY FLEUR/ギャラリーPARC 1/10~1/26

出展作家:荒木由香里、衣川泰典、木村了子+安喜万佐子、高木智広、中屋敷智生、花岡伸宏、林勇気、藤井健仁、松山賢、満田晴穂、麥生田兵吾

「溶ける魚 つづきの現実」実行委員会(代表 衣川泰典・高木智広)

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【補足】

●サブ会場のギャラリーPARCでの展示は面積にも制約のある街のギャラリーだったため、企画の趣旨が伝わりにくかったのは否めないが、メイン会場である京都精華大ギャラリーフロールではゆったりと作品を鑑賞するための配慮が行き届いている。いくつかに分かれた展示室内では、一室を除けばすべて複数の作家が一つの部屋に同居する形をとっていたが、作品同士の組み合わせは異質な作品同士が連想や連携といった形でイメージを受け渡し合うことができるよう丁寧に配置されている。比較的スタンダードな展示手法なので、そこでは「ミシンと蝙蝠傘が手術台の上で偶然出会う」ような火花はほとんどないが、各作家がいかにシュルレアリスムと向き合ったか、各作品それぞれにいかなるシュルレアリスム性が流れているかを読みとる上では却って好都合だったように思う。

●当展覧会のテーマがシュルレアリスムであることを「古い」とする非難が当たらないことは、ここまで読んでくださった方にはもうお分かりであろう。
ブルトンのアジテーションである『シュルレアリスム宣言』の字面や〈自動記述〉〈無意識〉といった言葉の表層にへばりついた評価や、硬直した美術史的、思想史的位置付けに呪縛された評価をいまだに目にするのは、クレメント・グリーンバーグらの歴史主義的批評理論の影響もあるのだろうが、そのような知を前提にしてのシュルレアリスム批判やシュルレアリスムの美術史的パッケージングは不毛としかいいようがない。シュルレアリスム運動が、フロイトの思想だけではなく、マルクス主義の思想や、同時代に勃興した現象学や実存哲学とも普遍的な問題系を重ね合いながら進展したことを忘れてはならない。

●シュルレアリスムを過去の運動としてパッケージングする見方に対し、近年、仏文学者らが根本的な異議を唱え、その研究成果は続々と刊行されているにもかかわらず、今ひとつ実作者たちの反応は鈍かった。しかし作家の責任であるよりは、表現ジャンルの違いによる棲み分けを自明視する美術アカデミズムやジャーナリズム、マーケットのエートスという問題が大きいのではないかと思っている。


【思索のための参考に】
●アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(巌谷國士訳,1992年,岩波文庫)
●『ブルトン詩集』(稲田三吉・笹本孝訳,1994年,思潮社)・・・ブルトンの主要な詩と散文を集成。
●巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』(2002年,ちくま学芸文庫)
●鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』(2007年,水声社)
●ジャック・ランシエール『不和、あるいは了解なき了解』(松葉祥一訳,2005年,インスクリプト)、『感性的なもののパルタージュ』(梶田裕訳,2009年,法政大学出版局)、『イメージの運命』(堀潤之訳,2010,平凡社)
●マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』(関口浩訳,2008年,平凡社ライブラリー)
●ロドルフ・ガシェ「作品・現実性・形態 ~ハイデッガー『芸術作品の根源』に関する覚書」(『いまだない世界を求めて』所収,吉国浩哉訳,2012年,月曜社)

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