2013年1月23日水曜日

アンドレ・ブルトン『秘法十七』(1947年)より

古い池はもはやない。池全体が月の笏杖の下で、そのたっぷりとした呼吸をとりもどし、その波のくぼみくぼみは、熱い海のあらゆる魚で、色とりどりに飾られる。その魚たちの間に、たがいに顔を見交わすことにたえられず、自分といきうつしの相手といまにも死をかけてたたかおうとする、緋色と青鴉色の《闘魚》たちがいるのが見てとれる。奴らの剣さばきはじつに活発なもので、微光が奴らの後へのこり、透明で液状の貝殻を、もっともしなやかなものからもっともきららかで細身のものまで、あらゆる方角へはせめぐるのだ。けれども波はしずまり、風変わりな闘いも終りになる、というより、曙の光の中に消え失せる。二つの流れは音もなく流れ、そして大地からは、感覚の全域をひとりじめにしようと、一本の薔薇の香がたちのぼって来る。今、辛うじてかいまみられたばかりの薔薇は、不意に、ふるえる夜の中で、聖なるエジプトのすべてを告げる。薔薇は、めまいを起こさせるほどくるくると旋回して、あがめられたる鳥、鴇(とき)の衿飾りとなり、そこからとりだされて来るのは、人間の夢が、荒縄で自分の建て直しを実行し、葉脈の方向にひびわれた自分の白い靴底を星々の間にはりわたされた糸にそって、あらためてすべらせようとするために、必要となるかもしれないすべての艤装用品だ。薔薇は、再生能力に限度はないと告げ、そして主張する、いかに過酷であり汚れにみちていようと、冬は、過渡的なものとしかけっしてみなされないと。それどころか、冬の鞭は、エネルギーをよびもどすために、鞭の先端で数千匹のエネルギーの蜜蜂を集めるために定期的に道々を打たなければならぬ、さもないと蜂どもはしまいには太陽のあまりに酔心地をさそいすぎる柘榴の実の中で、ねむりこけるだろう、と。

(ブルトン『秘法十七』入沢康夫訳,1993年,人文書院,118頁)


「秘法十七」とはタロットカードの17番、〈星〉のこと。
星空の下、女性が両手にもつ水瓶から大地にそそがれる水が池になる図像である。
この美しいくだりに登場する闘う魚のイメージが、二匹の魚が逆並行に描かれる魚座の絵図と対応していることは明らかだ。
このイメージは「溶ける魚」とどのように呼応しあうのだろうか。


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