2016年3月14日月曜日

詩誌『EumenidesⅢ』50号

詩誌『EumenidesⅢ』50号

表紙装画:つかもとよしつぐ

【巻頭エッセイ・美術と言葉が集う】
つかもとよしつぐ「美しいということが、」

【連載・詩】
渡辺めぐみ「小箱の秘密――ルネ・マグリット作『王様の美術館』に寄せて」

【エウメニデス記念五十号に寄せて】
平林敏彦 山田兼士 松尾真由美 京谷裕彰

【詩】
野村喜和夫「薄明のサウダージ(散文篇)」
松尾真由美「不明と自明と彷徨と」
たなかあきみつ「[遺失物は不特定多数の時計だとしたら・・・・・・]」
小笠原鳥類「アオサギ、湖の怪異」
広瀬大志「ミステリーズ」
海埜今日子「翡翠によせて、よ」
高塚謙太郎「わたしは本ののどになりたい」
森山恵「蔓草にせよ」
伊藤浩子「居 室(#1)」
京谷裕彰「チンアナゴとカエルウオ」「り」
作田教子「餓鬼道」
平野光子「苦汁」
藤井わらび「羽衣」
海東セラ「春のルーバー」
山本崇太「アンジェイ”セシル”ノワレト自伝」
小島きみ子「(放棄の美学)と(暗黒の土地)」

【エッセイ・シュルレアリスム特集を終えて】
小笠原鳥類「謎の鳥の声とシュルレアリスムについて?」
京谷裕彰「そして、モナドは拡散される」
平川綾真智「「シュルレアリスム運動と音楽」の交差」

【あとがき・言葉を差し出す集い】



◆2016年3月15日発行
 A5判 70頁 600円+ 送料180円
 編集発行人:小島きみ子 
 講読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで




2015年12月27日日曜日

詩誌『EumenidesⅢ』49号

『EumenidesⅢ』49号

【詩】

高塚謙太郎「あなたと傘のしたで」
海埜今日子「傘鳴ればいい。」
広瀬大志「パルス」
渡辺めぐみ「習熟祭」
長田典子「ツリーハウス」
京谷裕彰「駱駝のコブ 亀の腹甲への間」
漆原正雄「シュルレアリスム日記 (三) ―鳥景―」
勅使河原冬美「"ベトナム ハノイ市午前一時に於ける繰り返される沈殿 1983 7/15 01:45"」
小島きみ子「あなたへの秋の長い手紙」

【高原の朗読会作品抄】

伊藤浩子「In The Room」
生野毅『魄―はく ばつ―魃』より

【シュルレアリスム論考Ⅲ・最終回】

〈連載〉
京谷裕彰「シュルレアリスムの二十一世紀 (三)」
平川綾真智「なぜ「シュルレアリスム運動」は音楽を扱いこなせなかったのか (三)」



◆2015年12月15日発行
 A5判 104頁 600円+ 送料180円
 編集発行人:小島きみ子 
 講読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで



詩誌『EumenidesⅢ』48号

『EumenidesⅢ』48号

【詩】

広瀬大志「頭蓋穿孔」
海埜今日子「宵闇仮面祭」
森山恵「アリオーゾ―我が片足は墓に入りぬ」
京谷裕彰「壺焼きの怪」
海東セラ「夏の家」
勅使河原冬美「電子オルガンによるパタフィジーク音階 第二回"ヴェトナム、ホーチミン市の冷製フォー 1983,7/5 19:23"」
小島きみ子「(Hard・Bの鉛筆で描かれたスケッチ)

写真詩コラボレーション
漆原正雄・詩/小島きみ子・写真「EPITAPH(0)~(1)」 

【考察・シュルレアリスム】
高良留美子「シュールレアリスムと児童筆記について」
小島きみ子「二〇一五年四月二日マックス・エルンストからのメール」
 
〈連載〉
漆原正雄「シュルレアリスム日記 (二) ―魚景―」
京谷裕彰「シュルレアリスムの二十一世紀 (二)」
平川綾真智「なぜ「シュルレアリスム運動」は音楽を扱いこなせなかったのか (二)」




◆2015年7月31日発行
 A5判 55頁 600円
 編集発行人:小島きみ子 
 (品切れ)

2015年6月24日水曜日

岩名泰岳・宮永亮 二人展「Lamellar」 於、ギャラリーあしやシューレ

土俗性と詩性を兼ね備えたスタイルのドローイングやタブローで知られる画家、岩名泰岳さんの新作のモチーフはすべて作家が制作の拠点とする村にゆかりのものである。
 「観音山」
「観音山」とは、三重県島ヶ原村(現・伊賀市)にある正月堂という仏堂の裏山の名前であり、その名は正月堂の秘仏に由来するものと思われる。
この「観音山」と題する四つの連作タブローはどれも同じモチーフ、同じイメージを描いたものでありながら、絵画イメージそれ自体にはひとつひとつに微妙な違いがある。だが、決定的な違いは重量であるという。
塗り重ねられた絵の具の量の違いが、重量に差異をもたらすというわけである。
重ねられる絵の具の層は、時間の積層を意味しており、それは歴史における時間の多層性や、個々人の時間意識の多様性を示唆しているようで興味深い。
また、4枚のタブローに当てられるスポットライトは均等ではなく、画面に反射する光に偏りがあることも暗示的である。
使用された油絵の具の色は、赤、青、黄色、白の4色のみに制限されている。

キャンバスの地の上には詩のようなものが書かれているとのことだが、その上から幾層にも絵の具が塗り重ねられていくため、詩文はやがて絵の具に籠められてしまう。だから何が書かれているのかは、作家にしか分からない。だが、確かにそこにある(あった)のだ。ここには、声というものが発せられた瞬間に消えていく、はかないものであることが暗示されているようである。
分厚く塗り重ねられた絵の具の層は、織豊期に溯るという村の歴史の層をも意味するのであろうか。村で生まれ、生き、死んでいった人や動物や文化の連綿とした営みの厚みを思わせる。

ちなみに、檀家をもたない正月堂は住職が高齢で跡取りがいないため、このままでは存続が危ぶまれるとのことだ。

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宮永亮さんの作品は、複数の異なる映像を重ねることで構成される。撮影された映像は特定の地名に結びつけられているようだが、鑑賞にあたってそれが直接示されることはない。
「PEAK」
画面上部には大きな「PEAK」の文字、その下に水平線。さざ波は、ゆったりと流れる時間を表している。この尺の長い映像がしばらく続いた後、その上から先のものより少しだけ短い映像が重ねられ、また不意に変った映像はさらに尺が短くなり、次第に短くなる映像が順々に重ねられていく。後半になるとめまぐるしく変る風景に、前の映像の残像とが不思議な残響を引きずり、気がつくと鮮明だった「PEAK」の文字は判別不能なくらいに薄くなっている。上から重ねられてゆくことでだんだんと緊張感を増してゆく映像の連続を、もしもピラミッド型グラフで視覚化するならば、そのときはじめて「PEAK」の意味がおぼろげに浮かび上がってくるというもの。
水場にはときおり舟や人物が通過する姿も映されているが、映されたものの意味は解明されないままに、しかし、心にかする程度の印象だけが通過しながら、象徴的なものや喩的なものを連想するよすがとなる余韻を残してゆく。映像はエンドレスにループされるため、眺めていると余韻は反復を経て緩やかに強まり、観者の夢想との結びつきは豊かになってゆくことだろう。


展覧会タイトルの"Lamellar"とは水と油という、背反する性質の物質が層構造になった状態を指す言葉である。
二人の作家の作品に内在するなにかが層状に重ねられていくこと、また、重ねられてあるものの、別の二つのあり方が、互いに層をなすように響き合う。


ギャラリーあしやシューレ 2015.6.20~7.19

2015年6月21日日曜日

森村誠 展「Argleton -far from Konohana-」 於、the three konohana (大阪・此花)



展覧会タイトルの"Argleton"とは、2008年にGoogleマップ上で発見された実在しないイギリスの町の名である。架空の町でありながら、マップ上に出現後不特定多数の人々が店舗情報などを書き加えていったことによってその現実感が増していったという。

今回の森村さんの新作シリーズは、用途も目的も異なる様々な印刷物に掲載された地図を切り取って、そこから文字情報を修正液で消去した断片を、あるいは文字情報を残したままの断片を、針と糸で縫い合わせていったものによって構成されている。
用いられた地図はすべて関西圏のものであるが、当然のことながら縮尺はばらばらである。ただ、それぞれの断片同士は必ず線路や道路によって接続されるという法則が徹底されているため、連続した地図断片の集積がひとつの世界観を表していると見ることができる。あるいは個々の世界観を投影する大きな地図であるとも。

考えてみれば、私たちの脳内地図というのは、実に個性的で、それは主観によって編集され続けるものであるほかない。町で生活すること、移動することといった、経験と地図イメージとの複合によって、地理感というものが形成されていくからだ。だから、もしも他人の脳内地図を覗き見ることができるとしたら、それが誰のものであれ奇妙奇天烈なものであるに違いない。

そうすると、地図に嵌められた刺繍枠は、人間の意識や主観、あるいは脳を象徴していると読み取ることもできる。

それは、子どもの頃に住んでいた町の道路が、突然、今住んでいる町に繋がっていたりする、夢の中の地理をも彷彿とさせる。

用いられた地図がすべて大阪を中心とした関西圏のものであるという事実に着目すると、ギャラリーが立地する大阪で、ひいては関西圏で現実に進行しているジェントリフィケーションの深刻な問題とも、接点が生まれることになる。実際に、ジェントリフィケーションの象徴ともいえるタワーマンションの広告に掲載された地図が作品に使われているかもしれない。

また、修正液が落とされた地図は電子基板を想起させるが、電子基板とは回路であり、その形態はしばしば都市にも比せられる訳だから、こういった連想はつねに強度の現実を眼前に招来させるステップになる。それは、主観的な造形物がもたらす客観の強度といってもいい。

架空の町でありながら現実味を帯びてしまった"Argleton"の名を冠した展覧会で、森村作品が提示する架空の地図は、鑑賞者との間で意味の創出を喚起するものになるだろう。

不確かな情報が溢れる現代を生きる私たちは、いつも地図を欲している。


Konohana’s Eye #8 森村 誠 「Argleton -far from Konohana-」 the three konohana  2015.6.5~7.20


2015年6月10日水曜日

岩田萌 個展「strata」 於、SUNABA GALLERY(大阪・日本橋)


黒電話、壁掛け時計、ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』、ピアノの鍵盤、ダイヤル式の錠前、羽根付のボルト、それぞれが別個に、あるリズムをもって動くオブジェの映像を組み合わせたインスタレーションである。

オブジェの動作に音声がともなっているからだろうか、一見したところそれぞれの映像同士の間には規則性があるように見受けられ、そのような期待のもとに見入ってしまうのだが、実のところないことがわかってくる。
ないのだけれども、ひとつひとつは規則的な動きをもって反復しているので、無秩序的でありながらも、明らかに調和性をもった秩序が立ち現れる。ないのにある、なにかが。

すると、たとえば鍵盤と『はてしない物語』とが、あるいは時計の針と黒電話のダイヤルとが、相似形をなしていることにも意識は赴いてゆく。

"strata(ストラータ)"とは、stratum(層、地層)の複数形で具体的なモノとしての層、抽象的な意味での層、双方の意味をもつ、とのことだ。

SUNABA GALLERY 2015.6.6-6.17






2015年5月23日土曜日

抽象絵画の根源性 ~渋谷信之・中井浩史・中島一平 絵画展「はじまりの応答」からの覚え書き (於、2kw gallery/大阪)

色彩同士の、さらには画面と言葉との距離による発光現象を捉える渋谷信之さん。

始点と終点とが繋がった一筆書きのような線の重なりによって、円環する存在を力動的に描く中井浩史さん。

補色関係にある二つの色と刷毛のストローク、内在的に制限された方法のみをもって光を表象する中島一平さん。



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戦争の世界化によって人間の存在条件が問われた第一次大戦が、アブストラクト(抽象)、シュルレアリスム、マルセル・デュシャンという現代美術の原基を胚胎させ、二度目の世界戦争を経て現在に続く展開がある。もちろん、美術に限らず現代ナントカの多くが戦間期に基礎を築くのであるが、緩慢な戦争前夜になるかもしれない今、その一角である抽象の強みはどこにあるのか?

私はこの抽象絵画三人展の初日トークイベントで司会を務める機会をいただいたのだが、以下はその経験を通じて考えたことのメモである。
(メモなのでまとまりのなさはご容赦いただきたい)


意味と無意味

抽象絵画にとって、無意味であることの強みとは何か?

たとえば、意味性が消去された抽象絵画があるとする。
それが即自的には(作品それ自体としては)無意味であったとしても、作品が観者へと差し向けられ受け渡される過程にあって、観者にとって作品は何かしらの意味を生成せしめる触媒にはなりうる。その場合、意味はつねに副次的、あるいは漸次的に生成されるだろう。
その一方で、作家にとって意味が開示されるのは作品を介した他者との交わりにおいてであったり、作品に面しての深い内省であったり、年月を経て自身の仕事を振り返る時であったり、あるいは開示されることはないかもしれない。
しかし、一般に特定の固有名詞とは関連づけられない抽象絵画は、何事も意味を見いださねば落ち着かない理性の桎梏から、人間を解放してくれる窓にもなりうるのは確かである。

それでも厳密にいうならば、何かしらの意味は〈ある〉はずだ、という希望的観測への誘惑は禁じ得ない。もしも〈ある〉としたら、それは観者にとって未だ開示されないものとしてあるような、そんなあり方であろうか。
もちろん、抽象絵画にはいくつものスタイルがあるのは承知しているが、このことは作品に添える言葉(タイトル)の有無には拘わらないのではないか。

この〈意味〉と〈無意味〉の関係は、〈見えるもの〉と〈見えないもの〉の関係とも相似形をなしているように思う。

では、作品が特定の名詞と結びつくことで初めて鑑賞が成立するケースだとどのようなあり方であるのか?
その名詞とは、作家が作品に付けるタイトルの場合もあれば、観者固有の記憶と結びつく場合もあるだろう。
いずれの場合においても、〈意味〉は観者にとって内的なものとしてしかありえないのではないか。だがそこに、鑑賞という行為がもたらす夢想のゆたかさがある。


時間の存在論

絵画に限らず、抽象芸術とは、個人的、個別的なものを超える普遍性への導きとなると同時に、個人的、個別的なものへと環流する径を鑑賞者に提示するメディウムとなる。
それは時にあえかで、時に複雑さや単純さの奥に隠れたものであるゆえに、見ることを通じて径が開明されるには、ある契機と時間とを必要とする。その契機とは、ハイデガーが『芸術作品の根源』でいう〈衝撃〉という概念で説明することに差し支えはないだろう(『芸術作品の根源』関口浩訳,2008,平凡社ライブラリー)。〈衝撃〉とはすなわち、作品が観者の視覚に、ひいては感性的なものに衝迫する力のことである。
そして〈衝撃〉の後には感性的なものになじむための時間を経ることが不可欠なのであるが、その時間を経ることで観者にとっての生きられた時間としてのカイロスが開かれる。計量可能な時間としてのクロノスを経ることで開かれるカイロス、これが〈衝撃〉とともに必要となる内的な時間である。それは可変的なものである。
つまり、抽象芸術とは空間に置かれるものでありながら、時間の秩序を束の間変成する装置となるのだ。
とりわけ絵画の場合、鑑賞は作品と対峙する形をとる。
そこでは、作品の色彩や形象、あるいは大きさを前に、まずは視覚を通じて何かが始まり、やがて時間の整序が変調するころに、心身の様々な感覚が作品との間で受容と排除の機制を発動させる体験となる。
この〈見ること〉への意志を通じて開示されるものを、軽視してはならない。
そして、夢想とはつねに目を通して作用するということも。

以上のように抽象芸術の強みとして述べた事柄は、実のところ程度や様相の違いを問わなければ広く芸術一般にも適用できる。
ここから、ハーバート・リードの〈すべての芸術は本来抽象的である〉という命題が導かれるのだが(『芸術の意味』瀧口修造訳,1966,みすず書房,29頁、リードの意図は次の言葉に言い表されている。
「抽象の能力を低く評価しないようにしよう。なぜなら抽象能力は、美術のみならず、論理の、科学の、あらゆる科学的方法の基礎であったからだ。homo fabor(ものをつくる人間)とhomo sapiens(ものを知る人間)との間に区別がつけられうるならば、その区別は、この抽象の能力に存する。」(『イコンとイデア』宇佐見英治訳,1957,みすず書房,34頁)


現代美術の表現方法の多様化や、デジタル・メディアが社会を席巻し始めた90年代半ば~ゼロ年代頃には絵画の不利が指摘されたようだが、一通り社会に浸透し、情報の過剰と感性の高速化が強要される現在にあっては、〈見ること〉をめぐる状況は切実さを増している。不利な状況が一変したわけではないが、絵画であることの強みが〈見ること〉に関わっている以上、そのアクチュアリティはむしろ強くなっていると言っていい。

抽象絵画を鑑賞することは、様々なメディアによる下意識や無意識へのすり込みで害されてしまった認知や情動の回路を組み替える、"はじまりの場所"にいつでも戻れるきっかけになるはずだからだ。

過剰さに、豊穣さが飲み込まれないために。



◆渋谷信之・中井浩史・中島一平 絵画展「はじまりの応答」 2kw gallery 2015.5.18~5.30
 

2015年5月5日火曜日

ART SPACE ZERO-ONE企画展#5 「かつらをかぶった雀蜂」 (大阪・豊崎)

自らの身体組織の一部を素材にアクセサリーを製作するKatie Funnellさん、

バイオモルフィックな形象をオートマティックに構想しながら驚異的な精度で細密に描画するマリアーネさん、

他者との交わりのなかで生じた廃物を美しい花輪に仕上げる池内美絵さん、

人形の衣服をひたすら切り刻む様子を映像に収めた春名ゆまさん(下掲の写真)

四者四様に力を秘めた作品ばかりである。

人間存在の、えも言われぬ恐ろしさを否応なしに突きつけられる思いがした。

その反面、作品とまみえる立ち位置が異なれば、痛快きわまりないと感じる人も少なくないだろう。



ART SPACE ZERO-ONE (大阪市北区豊崎) 2015.5.3-5.24

2015年5月4日月曜日

今村遼佑『すます/見えてくるもの聞こえてくるもの』(はならぁと2014記録冊子)





写真を一葉、提供させていただきました。


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「すます/見えてくるもの聞こえてくるもの」(奈良・町家の芸術祭はならぁと2014

作家:今村遼佑
キュレーター:舟橋牧子
2014.11.7-11.16 郡山城下町南大工町の家(大和郡山市南大工町35-4)

2015年4月1日発行(今村遼佑編集/舟橋牧子発行

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レビュー記事→http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.jp/2014/11/2014_55.html


 

2015年4月20日月曜日

加賀城健 展「Essential Depths」 於、the three knohana (大阪・此花)

染色という方法で制作する現代美術家、加賀城健さんの作品はいつも、調和的な色彩というものの存在について、考えさせてくれる。
伝統工芸としての染色において、にじみはタブーとされるのが一般的だそうだが、加賀城さんは〈にじみ〉の美に高い価値を認めているように見受けられるのは、加賀城ファンの多くはすでに気付いていることだろう。
なるほど、色調や階調には明確な境界線というものはない。何かを明確に画する認知というものは、どこかで理性的な思惟によって了解しているにすぎないとも言える。何事も、視覚的にであれ、他の感官によるものであれ、時間のなかでつねに移ろいゆくものであるにもかかわらず。
そのことに気付かせてくれる、得がたい体験である。
だから、部屋に射す光、反射した光、照明の光、布に当たる、あるいは布を透過する様々な光と加賀城作品とは親和的な関係を結んでいるように思う。
色彩のにじみが光の中で醸すものへの信頼は、何かを確固としたものとする秩序や、それとは別の秩序との間を、情緒的に溶融させる優しい実践ではないだろうか。
溶融を象徴するものが他ならぬ〈にじみ〉であることを、わざわざ言葉にすることが野暮なほどに。

平面性と空間性をめぐる新しい試みが随所にみられる今回の個展では、新しい世代における抽象芸術の、ひとつのあり方を窺うことができるだろう。

◆Konohana’s Eye #7 加賀城 健 「Essential Depths」 the three konohana 2015.4.3-5.17