最近、重本晋平(しげもとしんぺい)さんという現代アート作家と知り合いました。2009年12月に築港の海岸通りギャラリーCASOで開催された、奈良アートプロムのプレ展覧会がきっかけでした。また、先日京都の元立誠小学校で開催された平展というグループ展にも参加されていました。
重本さんは町のいたるところに生えている草(いわゆる雑草)に注目します。私たちの誰もが普段生活を営む中で毎日目にしていながら、気に掛けることなどほとんどない、名もない草に独自の名前を付け、分類し、そしてそれを地図の上に記録して分布図を作成。「まちくさ」とはそうして名付けられた草たちの総称です。
たとえば放置された自転車を飲み込む草を「ものくい科」という科に分類したり、コンクリート上に穿たれたポールを差し込む穴(?)に溜まった土に生える草には「あなくさ科」というように、町で目にした面白い草、個性的な草に名前を付けるのです。
誰もその名前を知らないもの、あるいは誰かが一方的に名付けたものに対し、自らの意思で名付け、名付け直すという行為によって、それらを自分のものにし、まちの地図を活き活きとしたものに描き直すという、自己と世界との関係を再構築する実践だといえるでしょう。そのようにいうと、ジャック・デリダやフェリックス・ガタリの思想を想起する人もいるでしょうが、今僕が読んでいるジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ』に引きつけていうと、「まちくさ」というフィクションを、既存のフィクションとしての和名・学名・雑草というものに対立させること、あるいは既存の現実に対して、「まちくさ」という別の現実を対立させることで、逆説的に対立の図式の外側へと私たちの認識を導き、そして人が町に対して取り得る関係を創造的に組み替えていく実践であると解釈できそうです。
しかし決してそれだけにはとどまらない、未知の可能性を秘めていることは強調しておきたいと思います。
重本さんは赤瀬川原平らの路上観察学会の系譜上に、とりあえずは位置づけられると思いますが、より思想的に進化した感じがします。現在、私たちが暮らす都市空間は過剰な監視と管理によってますます息苦しく住みにくいものになっているわけですが、作家ご本人も現実に都市で起こっていることについての鋭い問題意識をお持ちでした。
そういった意味で極めて政治的な芸術ですが、彼は政治と美学を区別・分離しようとする、昔からある陳腐な図式の虚構性をよく理解しているように思えました。
(例えば「政治と芸術は別だ」「芸術から政治を切り離さねばならない」という言説それ自体がドグマであり、そもそも政治的であることから免れ得ないということ。大切なのはその〈政治的であること〉が政党やイデオロギーといった予定調和的なものに回収されていないことです。→この問題はまた稿を改めて論じます)
重本さんの芸術を強いてジャンル分けするなら主に写真とインスタレーションということになるのでしょうが、展示されたものだけが作品というのではなく、草と出会い名付ける行為そのものが芸術であり、むしろ展示された作品はその記録といった感じでしょうか。あるいは、展示それ自体もまた他者との巻き込まれのなかで生成する芸術である、ともいえそうです。
いずれにせよ、分類という方法を採用しつつも、ジャンル分けなどという既存の分類体系を拒絶している、そこからして大変ラディカルな芸術実践だと思いました。
先日の平展で展示された新作のまちくさファイルでは、一枚一枚のカードに写真と「集団目」「生息地」「特徴」などが記載されていましたが、それらは紛れもなく詩でした(殊に「特徴」として書かれた一、二行の言葉は詩そのもの)。
そこには、草をみる眼差しのやさしさ、ひいては世界への愛が感じられます。そして、はかなく小さき者たちだけがもつ勁さへの、揺るぎない信頼があります。
重本さんの今後から目が離せません。
重本晋平さんのブログ「まちくさ日記」
http://machikusa.exblog.jp/
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