2010年11月28日日曜日

金子光晴「森の若葉」より




なにしろ今の日本といったら

あんぽんたんとくるまばかりだ



※金子光晴詩集『若葉のうた』所収(1976年)

敬愛する金子狒狒爺さんの言葉、まったく古びておりません。




2010年11月26日金曜日

海老優子展「circulation」  於、ギャラリーwks.

「良き日」 

「夏の雲」

「劇場」


「手がかり」


様々なイメージが重なり合う意識のフレームの向こう側に広がる平らな世界を描写した大きなタブローと、行き詰まった壁の前にある一本の白い糸が暗示的な「手がかり」と題された二枚の小品、その対照性がとても面白い展覧会でした。


◆ギャラリーwks.(大阪・西天満)

この展覧会は11/27(土)まで。

2010年11月23日火曜日

T・S・エリオット『荒地』(岩崎宗治訳,岩波文庫)

〈非現実の都市〉
冬の夜明けの褐色の霧の下
ロンドン・ブリッジを群衆が流れていった。たくさんの人、
死に神にやられた人がこんなにもたくさんいたなんて。
短いため息が、間をおいて吐き出され、
どの男もみんなうつむいて歩いていた。
・・・
(岩崎訳『荒地』60-65行…もっともお気に入りの一節)

20世紀モダニズム詩の古典、T・S・エリオットの『荒地 The Waste Land』といえば2003年に『紫陽』を創刊した頃に鍵谷幸信氏や深瀬基寛氏の訳でよく読んだものですが、この度エンプソンの詩論『曖昧の七つの型』の翻訳などで知られる岩崎宗治氏による新訳が岩波文庫から出ました。
以前から『荒地』に入手しやすい版がないことを嘆いていたので、こなれた訳文に膨大な訳註と解説が付され、引用と喩と象徴によって意味の重層性を極限にまで突き詰められたテキストを鑑賞する上で最適な文庫版が出たことは朗報です。

この『荒地』をめぐる僕にとっての最大の関心事は、エズラ・パウンドによる大幅な添削が入る以前の草稿に、エリオットの最初の妻・ヴィヴィアンの影響がどのくらいあるのか、つまりヴィヴィアンはエリオットのミューズとして日常的に夫婦間の詩的交感を続けていたわけですが、このあたりのテキストクリティークはどうなっているのか、ということでした。エリオットの全作品の中でも『荒地』だけが突出しているのは不自然だと思っていたので、そのオリジナリティについてはかなり疑問視していたのでした。案の定、本書の解説によると実際にヴィヴィアンの筆が何カ所も入っていたことがわかりますが、草稿にも残らないような精神的な影響関係はかなりのレベルに達しているものと推察されます(ただアカデミックな方法による実証研究ではもう限界にきているので、それ以上のことは作家がなすべき仕事でしょう※)。そこから、『荒地』がエリオット個人の業績であるというよりは、ヴィヴィアンやパウンドとの交わりのなかで成立した作品であったということの意義を肯定的に捉え、読み直しを図るための土台が提供されたということの意義を評価したいと思います。

しかし、今エリオットを読む場合、注意すべき点がいくつもあります。
まず一つ目に思いつくのは批評家としてのエリオットが、それまで支配的だった主観的な印象批評を排したまではよかったものの、それに対するに詩人が持つべきは「伝統」への帰属や「歴史的感覚」であるとし、自らをヨーロッパ文学の正統な継承者であると自負する傲慢さ、それゆえの保守的で硬直した形而上学への回帰が窺えること。それは、ニーチェによって神の死が宣告された(西洋形而上学の破綻)後、オルタナティブなというニュアンスではない形而上学を追求しようとしたその思想が、本来彼が批判しようとしたはずの、文学が擁護すべき価値とは対極のものを引き入れてしまっているという意味でです。
もう一つは、ミューズであったはずの最初の妻ヴィヴィアンを、そのエキセントリシティゆえに冷遇する凡庸な夫として、また自らの名声に傷がつくことを恐れて遺稿・草稿群を非公開にした小心者として、そしてプチブル的リベラリストサークル「ブルームズベリー・グループ」のメンバーであり自らの所属階級を脅かす思想の持ち主であるロマン派の詩人、わけても存在そのものがラディカルだったシェリーを感情的とも言える執拗さで攻撃した権威主義者としてのエリオットの凡庸さ(シェリー批判というか非難からは、判断力批判が不徹底で批評理論としても破綻していることがわかる)。
以上、批評理論から窺える思想の限界、そして凡骨漢としてのエリオットの、その卑小なパーソナリティに対するラディカルな批判を経た上での肯定、という手続きがなければ、今さらいかなる再評価も、また新たな読みの可能性も開かれないのではないかと思うのです。

とはいえ、求めやすい文庫版が出たことの意義はいくら強調しても強調しすぎることはないでしょう。


◆T・S・エリオット『荒地』(岩崎宗治訳,2010年8月刊,岩波文庫,¥840+税)

※エリオットとヴィヴィアンの関係については、マイケル・ヘイスティングス『トム&ヴィヴ ~詩人の妻』(山形和美訳,彩流社)があります(←これを原作にした映画も面白い! もう何年も前、当時の奈良テレビ社長自らがナビゲーターを務める深夜映画の名物番組「ラビリンス・シアター」で見ました)。

2010年11月22日月曜日

奥田エイメイ"浮遊FACTORY"

昨日は奥田エイメイさんのアトリエ"浮遊FACTORY"を訪問しました。
奈良市佐紀町・平城宮松林苑の跡地にあるエイメイさんちまで歩いていくとどのらいかかるか試してみようと、うちを出てならやま大通りを東に進み、そこから歌姫街道を南に歩いていくと35分で着きました。歌姫街道の景色は散歩コースとしてはなかなかのものでしたが、車の通行量が多いのだけが難点。




「水中猫発生プロジェクト」。DNAになぞらえた四つの元基を制作し、それを増殖させることで新たな疑似生命体を創造しようとするものだそうです。

水槽の水を対流させることだけでオブジェを落とさずに浮遊させるしくみ。流体力学の話などもじっくり聴いてみたいものです。

異様な存在感をはなつ水道管オブジェ。


このエイメイさんの分身みたいな方は副社長だそうで。写真には映っていませんが、このテーブルの上にも小さな床と机があり、そこには社長さんが座っていらっしゃいました。



想芸館 浮遊FACTORYのHP
http://huyuu.com/

藤川奈苗展「gateway」 於、ギャラリー白







赤を基調とした画面に、長方形や円筒形、あるいは不規則な線といった象徴を配した作品です。

描いては消し、描いては消し、を繰り返しながら仕上げられた大きな三つのタブローは同時進行で制作したとのこと。遠目でみるとどれも非常によく似た印象を受けるのはそのためなのでしょうか。

タイトルの"gateway"とは、入り口、門のある通路といった意味以外に、異なるコンピュータネットワークの間を相互に認識可能な通行データに変換する役割を持つ装置やソフトなどの総称という意味がありますが、位相の異なる記憶の象徴を、一つの画面上に描き込むことに成功した藤川さんの作品を鑑賞する上でメタフォリックなキー概念になっているようです。


◆NAPグループ展レビュー

2010年11月20日土曜日

大橋範子パフォーマンス「自殺者追悼の儀」(2010.5.15,SoHoアートギャラリーでの擬態美術協会個展会場)

5/15に擬態美術協会さんの個展会場で行われた大橋さんのパフォーマンス動画を見つけました。

http://www.youtube.com/watch?v=E0Is7_Y5kvo

擬態美術協会さんの定番・録音用と再生用の二つのカセットデッキを使ったサウンドオブジェを背景に、大橋さんの叫ぶ声が遅れて会場に響き渡る、深い思索にもとづくパフォーマンスの記録です。
映像には川野安曇さんやmachi/さん、倉田めばさんに混じって僕の姿も(笑)。


ところで今朝、ダダカン先生に紹介していただいた黒ダライ児『肉体のアナーキズム ~1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(grambooks)を読み終えました。
これまで何千冊もの本を読んできましたが、これほどの衝撃と感動を得られる本というのはそう簡単に出会えるものではなく、僕にとってここ数年間では間違いなく最高のもの。この本が地下水脈を知る霜田誠二さんを経てmachi/さんや大橋さんら新世代のパフォーマーに手渡されたことの意義、その計り知れなさを思うと、感動のあまり震えが走ります。

2010年11月14日日曜日

藤川奈苗展「gateway」、11/15からギャラリー白にて

NAPグループ展2010で好評を博した藤川奈苗さんの個展"gateway"が11/15(月)~11/20(土)の日程で開催されます(11:00-19:00,土曜は-17:00まで)。場所は大阪・西天満のギャラリー白。




ギャラリー白
http://galleryhaku.com/

藤川さんのレヴューを含む過去の記事
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/10/nap2010great.html

2010年11月7日日曜日

福森創「developing」 (木津川アート2010 於、八木邸)

福森創さんとは昨年の12月、CASOで開催されたNAPのプレ展覧会で知り合い、それ以来ずっと注目しつつもなかなか適切な言葉が見当たらず、このブログで紹介できずにいましたが、木津川アートでは圧倒的な存在感を放っていました。

福森さんはアルミやステンレスなどの金属板を基底材として、それにひたすらドリルで穴を穿ち続けることによって造形していきます。最近は平面から立体へと表現の領域が拡大しつつあるので、今後の展開が本当に楽しみな作家です。


門を入ってすぐ右手にある蔵の内部が展示空間。正面奥に一枚、両側の壁に向かい合わせにそれぞれ一枚ずつ平面作品が掛けられ、床には球体が安置されています。展示空間との相性は最高。


正面奥の作品。下の二枚は向かい合わせになったもの。見事なライティング。



まるで月のよう。



画像をクリックすると細部を観察できます。


昇る太陽を宇宙空間でみるとこんな感じなのでしょうか。


「繰り返す事、集合させる事、合わせる事、つなげる事、などの連鎖的な行為によってその行為以前のモノやコトが変化し 新たなポジティブなイメージが現れてくる」
「小さなパワーが集合する事で大きなパワーへと変化していく様は、自分自身を創り上げていく過程の様なものであり、それらはいくらでも大きくなり得ると思います。」
と作家本人がキャプションで語るように、単純で些細な行動の反復、そしてその行為の集積が生みだすポジティビティ、その力能への深い信頼に裏付けられた作品は、鑑賞者を恍惚とさせる至高の美というにとどまらず、それが宇宙をイメージさせることからそのまま無限へのポジティブな志向性へと導いてくれます。



木津川アート2010は11/14まで、詳しくはHPをご覧ください。
http://kizugawa-art.com/
  

萬谷和那「spirit」 (木津川アート2010 於、八木邸)

スコットランドに伝わる死を知らせに来る精霊にインスパイアされたという作品。

二つの蔵の狭い隙間で自らの心の中に立つことを、作家は促します。赤い線が見えるというのですが、どこにその線があるのかすぐには分からず戸惑ってしまいました。でも、その戸惑い自体にも意味がありそう。


隙間の奥の土壁には模様を形作った圧痕がありますが、これはこの建物由来の意匠。


視線を上にやるとこんな感じで、二つの蔵の高さは微妙に違っています。迫り合った切り妻の軒の隙間からは淡い光が線のように差し込んでいます。

振り返ると向かいの建物の壁に一本の赤い線が見えました。この一本の線が萬谷さんの設えたインスタレーション。

壁板の隙間に赤い粘土が埋め込まれ、一本の線が形成されていますが、左側に茶色い雨樋が寄り添っているのも意味深です。

萬谷さんは制作のモチーフとして常に個と社会との関係を考えている作家ですが、今回のインスタレーション「spirit」は、バランスの悪い二つの建物の隙間に立って隙間を埋めるという意味があるそうで、この展示場所の選定、建物の隙間に立つこと、など全てひっくるめて一つの作品行為になっているようです。古い庄屋建築である八木邸という場が放つアウラを、その違和をも含めて感受し、ここしかないという場所に作品を定位したその見事さに唸らされました。

そして、テーマは
「そうではなかったはずの現在」で、自分自身を心の暗闇に誘い込む内なる囁き。

そこにたつと空気の佇まいが外とは違うことにすぐ気づく場所で、深い内省へと誘われた精神に、赤い一本の線がまるで超越者からの暗号のように訪れます。



僕はこのようなコンセプチャルな作品に出会うと感度が一気に昂進するようです。









2010年11月1日月曜日

月刊『あいだ』153号「特集:いまこそ糸井貫二」

ラディカルな美術批評雑誌・月刊『あいだ』が153号(2008年10月)で《いまこそ糸井貫二》という特集を組んでいます。2008年秋のダダカン米寿記念「鬼放展」に合わせた特集なのですが、商業誌では不可能な内容なので、ご興味のある人はぜひBNをご購読ください。


【目次】
『あいだ』153号 (2008年10月20日発行/総44ページ)

•特集=《いまこそ糸井貫二》1 開かれたダダカン  小坂 真夕 ……2
•特集=《いまこそ糸井貫二》2 全裸のハプニング天使がやってきたこと――〈鬼放展〉について  鳥水亭 木呂 ……8
•特集=《いまこそ糸井貫二》3 普通の人,本物の人――〈ダダカン・シンポジウム〉報告 ……19
•あいだのすみっこ不定期漫遊連載60 華厳経と現代美術 相互照射の試み(その2)第2回国際華厳会議(フランス・ベレバ)発表論文  稲賀繁美 ……25
•≪連載≫ 戦時下日本の美術家たち 26 「新聞も兵器なり」――朝日新聞と戦争 [1]1937年-42年  飯野正仁 ……30
    (表紙写真:栃木県那須塩原市 photo. Akiba Sari)



ご購読は月刊『あいだ』HPから。