2013年12月29日日曜日
池田友里展「Inner Vision」 於、gallery CLASS (奈良市旧市街)
作家とのマンツーマンフォトセッション"Inner Vision"。
暗いブラックキューブに設えられた作品から請い求められるのは、まぶたに焼き付いた光の残像を鑑賞すること、近づく者の姿をシャープに、しかしながら浅くしか映さない鏡面に映る、欠けた己を見つめること。
そこに、横たわる作家・・・。無言で、微動だにしない。
ある角度でカメラを構えると、光の輪が浮き上がる。
◆gallery CLASS 12/11~12/24
このパフォーマンスは12/28、20時頃に行われた。
2013年12月23日月曜日
詩「反り返りある凹面鏡」
泥の河に架かる屋根付き橋を渡りゆく黒い人の群れ
冬の朝鮮海峡を渡りゆく蝶番の大群
土筆の群落の地下浅くをうねる土龍の律動
にも似た窮屈さで まなじりを腐す
しずる夏の夜の 死にし神の面影にさきはわれ
欠けそめる咳の航跡に引き拓かれる 芋畑の憧れ
(二十三夜月の南中)
詩人・小島きみ子さんが拙詩に応答して制作してくださったドライフラワー「蝶番」。
◆小島きみ子個展「薔薇と詩歌句:Rose fantasy」 12/2~12/24 於、画廊喫茶「パンの花」
広瀬大志、松尾真由美、池田俊晴、京谷裕彰、池田康、久保園理恵、上野典子(現代詩)、廣田恵介(翻訳詩)、倖田祐水、東徹也、中村みゆき(短歌)、鈴木伸一(俳句)、大原鮎美(自由律)、13名の言語芸術家と小島きみ子さんの薔薇のドライフラワーアレンジとのコラボレーション展。もちろん、小島さんご自身の詩も。
2013年12月11日水曜日
藤井貞和さんから頂戴した色紙 (に、したためられた問い)
「レヴィ=ストロース氏が、
マジノ線でドイツ軍の攻撃を待ち受けながら、
そのとき私は(と氏の言う)
タンポポの花の丸い球をじっと眺めて、
この対象の奇蹟とも言いえるような規則的な構造について、
因果関係や、 歴史的な偶発事や、
あるいは各部分の単なる組み合わせを並べてみても、何にも説明できない、
というふうに考えたのでした。
美とは何か?」
貞和さんから大きな宿題を頂戴しました。
ずっと考えておりますが、心の中でひとまずの回答を試みるも、言葉の手前でするりと抜けていってしまいます。
それでもまた、今日も考えているのです。
マジノ線でドイツ軍の攻撃を待ち受けながら、
そのとき私は(と氏の言う)
タンポポの花の丸い球をじっと眺めて、
この対象の奇蹟とも言いえるような規則的な構造について、
因果関係や、 歴史的な偶発事や、
あるいは各部分の単なる組み合わせを並べてみても、何にも説明できない、
というふうに考えたのでした。
美とは何か?」
貞和さんから大きな宿題を頂戴しました。
ずっと考えておりますが、心の中でひとまずの回答を試みるも、言葉の手前でするりと抜けていってしまいます。
それでもまた、今日も考えているのです。
2013年12月7日土曜日
野田万里子展「HOPE」 於、TEZUKAYAMA GALLERY(大阪・南堀江)
野田さんが制作という営みの外側で日常的に考えていることと、制作の内側で考えていること、そして出来上がる作品との関係がどうなっているのか、野田作品に接する時いつも気になっていた。
静謐な佇まいとモチーフを稠密に反復するスタイルは、視覚的な印象批評においては誰もが言及する顕著な特徴としてあるのだが、それと対をなすように視覚の外側を流れる、強い思想性がある。そのことに注目し、その両者に張り詰められた接線を探求することが、野田作品を深く鑑賞する上での重要事ではないかと私は思っている。(そんなことをせずとも充分に楽しめる作品なのだが、ここは敢えて)
全体と個とが、また個と個とが共鳴すべく設えられたインスタレーションは、視覚的には説明性が希薄である。その一方で、「このように読み解いて欲しい」という、作家にとっての正解が存在する。
ゆえに、解釈の自由と正解とのはざまに立って、見ること、感じること、その直後から"考えること"が要請されるのだ。
だがしかし、視覚の外側にあるだけに、正解には辿り着けない(とはいえ、野田さんは知りたい人には包み隠さず語ってくれる)。それでも、鑑賞者の意志は正解へと惹きつけられ、惹きつけられる意志がある限りにおいて、正解へと近づくことはできる(はずだと信じられる)。
それは真理への到達不可能性をうすらうすらと覚知しながら、それでも到達への意志を持続させることでようやく"希望"がひらかれる、そんな営みと相似的なのだ。
だとすると、その論理に気づくことがひとまずの正解である、と言ってもあながち誤りではなかろう。
意志と、意志を惹きつけるもの・・・
インスタレーションとテキストとの関係から、〈見える〉と〈見えない〉、感性と理性、全体性と無限、などなど・・・、
野田さんの作品が投げかける、対極性への、あるいは関係性への問いは、古今の哲学的な問題系との通路をゆっくりと顕現させてくれる。
そこで提示される美学のあり方には、今この時代において、何か大きな可能性が秘められているのではないか、そんな期待感が湧き起こった。
それはたしかに、"希望 HOPE"といいうるなにがしかであるのだろう。
◆TEZUKAYAMA GALLERY 11/23~12/21
三尾あすか・あづち展「Re born」 於、ondo (大阪・土佐堀)
"Day Dreaming"(2013)
双子の姉妹、あすかさんとあづちさんは、四本の腕と四本の脚、そして四つの眼で絵を描く。
そこにある複数性、そして「双子だから」と同種的にまなざしてしまう視線を美事に裏切ってくれる異種交雑性が、新たに加わった油彩画という方法によって以前にも増してはっきりと窺えるようになった。
画面に描かれるニョロニョロのような、おばけのようなおなじみのキャラクターたちは、
時空をかたどるいくつもの支持体を横断するように、わずかな差異を伴いながら、そこかしこに顔を出す。
ここではないどこかからやってきて、未だ見知らぬどこかへと移り去って行く。
その姿は、それと気づかぬうちに生まれ変わる私たちの姿と、ときに重なり合い、映し合い、響き合い、そして行き違う。
"彼女"であり、"彼女たち"であるような、
"私"であり、"私たち"でもあるような、
あるいは、
"誰"でもないが、"誰か"でしかないようなあり方で・・・。
◆gallery & product "ondo" 12/5~12/27
2013年12月2日月曜日
仲摩洋一展 ―inside the forest― 於、コンテンポラリーアートギャラリーZone (箕面・桜井市場)
そこに広がるのは、まぎれもない風景である。
だが、それがいかなる風景であるのかは自明ではない。
足を運ぶ、佇む、見る、(タイトルやステイトメントを)読む、という行為を通じてそれが森を描いた風景であることがゆっくりと明らかになる。
モチーフは、とある原生林だという。
仲摩さんは森の中を歩き回って写真を撮り、アトリエに帰りついた後から時間をかけてドローイングを重ね、そしてタブロー(油彩)に仕上げてゆくそのプロセスをとても丁寧に考えている。
だからこそ、モチーフを採取する場と制作する場、という隔たる空間や時間の間(あいだ)に、作家の意識や無意識を通じた何かがこもってゆくのだろう。
鑑賞者の意識が入り込むのも、もちろんこの"間(あいだ)"である。
作品の前に立つことが、森の中に立つ、ことを意味する"inside the forest"(2013)。水面に映り込んだ森を描いた120号の大判タブロー"water mirror"(2013)。鏡像を通じて開示される存在を示唆しているのだろう。
そこに私が"いる"ということ、目の前に絵が"ある"ということ。
存在への問いはここからはじまる。
絵の前に立ち、それを絵として対象化することは、すなわち世界を対象化することである。ここでいう世界とは、人間存在を取りまく外部世界であると同時に、絵の中に世界を見出し、見通す作家や鑑賞者の内面世界でもあるのだ。
ゆえに、森に流れる空気や射し込む光といった現象を描くことは、とりもなおさず世界内に生起する様々な現象に私たちの思惟を結びつける象徴を描くことへと転位する。にもかかわらず、それとひと目でわかる象徴的な図像が描かれているわけではない。
そんな仲摩さんの作品はどれも、タイトルが重要な意味を持っていることがすぐに理解できるのだが、ここでヤスパースの哲学に水先案内を依頼するならば、深遠さを象徴する森とは存在の暗がりを、作品に付けられたタイトル(言葉)は暗がりに光を照らす理性を表していると解釈することができる。
そうして"water mirror"から光を照り返された私は、絵の前で"問い"を発する私の存在、その内奥にある実存の闇に光を当てることを促されてしまうのだ。
このように幾つかの段階を踏まえ鑑賞者の実存をも照射する力がある光の表象、というのは大きな魅力である。この光の表象をめぐっては、印象派の多くが瞬間の光を捉えるのに対し、仲摩さんの絵においては、持続する時間がキャンバスにつなぎ止められている。それは具象的モチーフが写真や紙を経てキャンバス上で抽象的に溶けてゆく、その制作に要する時間の中でつなぎ止められる持続なのだろう。
なるほど、私たちは何かを対象として把握し、思惟し、認識しようと努める時、かならず時間の中で遂行するほかないのだという真理に至りつく。
つなぎ止められた時間の持続は、表象された光によって絵画本来の力へと変換されるのだろう。
◆コンテンポラリーアートギャラリーZone 11/23~12/5
"water mirror"(2011)
2013年11月14日木曜日
藤井貞和 「蛸壺」 (+詩作ワークショップのお知らせ)
「蛸壺」
神話の日、
蛸があつまって、
そのなかの、
垂直のあしをした、
いっぴきが、
蛸壺に、
真珠を連れて、
引きこもる。
引きこもりの起源を、
このようにして語る。
神話の日、
引きこもりを終えると、
祝福のために、
蛸壺から出て、
アマミコのもとへ、
慶賀を、述べに行ったまま、
帰らぬ蛸となる。
(アマミコのもとで、
あわれ包丁をいれられて、
台所のつゆと消えたと云う)
蛸壺のなかに、
のこされた、
真珠。 天にあおげば、
波の光の、さざめきを、
見るばかり。
真珠貝はいずこ。母の、
胎内から、
連れ出されて、
蛸壺に。
あわじしま、
しまかげ長閑(のどか)な、
真珠はふとる、
蛸壺のなか。
けいのうら、いまや蛸壺よりも、
大きな図体にそだった、
真珠。 出られない、
真珠は嘆息する、
蛸壺こそよけれ、「たこつぼ」と書く。
蛸に対して失礼だな、蛸壺という比喩。
壺に対しても失礼だ。
蛸壺から、
あしが生える、垂直に。
蛸足配線の、
コウドが八本、
ガジュマルの根をおろす。
無数の、真珠が、
根をはいのぼる。
おねえちゃんを助けろ、
おねえちゃんを救え。
母が真珠貝だとは、
かぎらないのです。
鳥貝科、鮑貝科、貽貝科に属する貝も、
その他の貝も、
つくることのできる真珠です。
蛸もまた、
真珠を産みたいと思いました。
蛸の全身が、
真珠層になりました。
神話の日、
なると海峡の、
大渦巻のしたで、
蛸の死骸が、
真珠を産んでいます。
(詩集『神の子犬』所収,2005年,書肆山田)
11/18(月)、18時より京都精華大学情報館1Fメディアセンターホールにて藤井貞和詩作ワークショップが開催され、清野雅巳さんと私がサブ講師として登壇します。詩の応募はすでに締め切っていますが、一般の聴講を歓迎しております。
http://johokan.kyoto-seika.ac.jp/modules/contents/index.php?content_id=536
また、11/19(火)、10時40分より京都精華大学黎明館L201教室で藤井貞和さんの特別講義「うたの文化論」もあります。こちらも一般に開放された貴重な機会ですので、ご興味のある方はぜひ。
京都精華大学へのアクセスについてはこちらをご覧下さい↓
http://johokan.kyoto-seika.ac.jp/modules/contents/index.php?content_id=19
2013年11月3日日曜日
高木智広展「此方×彼方」 於、Gallery PARC (京都・三条御幸町)
高木さんの絵はオーソドックスなシュルレアリスム絵画であるといっていい。だが見た目がそれっぽい、などといった皮相な理由でシュルレアリスムなのでは勿論ない。
作家は、自身が描く図像や形象の意味を、明確に意識しながら描いているわけではない。にもかかわらず、なのか、だからこそ、なのかも判然としないままにモチーフが反復されてゆくその営みは、とりもなおさず、無意識の底へと降りてゆくことであるのだろう。
作品の前に立って視線を動かすうちに、鑑賞という行為を根拠付ける、特権化された視線や視座が次第にぐらついてゆく。そうして、降りてゆく深み、低み、そこに滞留する闇が現実の底にある闇であることに、ある瞬間、はっと気づかされるのだ。
作家の、であるのか、私の、であるのか、それを截然と区別することを可能にしていた条件が曖昧模糊とした闇に溶けていることに気づいてしまうのだから、その体験は恐ろしいことであるに違いない。が、楽しいことであるといってみてもあながち外れてはいない。
キャンバスの、あるいは剥製の群を隔てる薄い膜のこちら側からあちら側へ、あちら側からこちら側へ。いずれも、現実へと強く肉迫してゆくこと以外のなにものでもない。
眼差し、眼差される、関係の内に入ってゆくことを通じて。
◆Gallery PARC 「此方(こなた)×彼方(かなた)」 10/29~11/10
作家は、自身が描く図像や形象の意味を、明確に意識しながら描いているわけではない。にもかかわらず、なのか、だからこそ、なのかも判然としないままにモチーフが反復されてゆくその営みは、とりもなおさず、無意識の底へと降りてゆくことであるのだろう。
作品の前に立って視線を動かすうちに、鑑賞という行為を根拠付ける、特権化された視線や視座が次第にぐらついてゆく。そうして、降りてゆく深み、低み、そこに滞留する闇が現実の底にある闇であることに、ある瞬間、はっと気づかされるのだ。
作家の、であるのか、私の、であるのか、それを截然と区別することを可能にしていた条件が曖昧模糊とした闇に溶けていることに気づいてしまうのだから、その体験は恐ろしいことであるに違いない。が、楽しいことであるといってみてもあながち外れてはいない。
キャンバスの、あるいは剥製の群を隔てる薄い膜のこちら側からあちら側へ、あちら側からこちら側へ。いずれも、現実へと強く肉迫してゆくこと以外のなにものでもない。
眼差し、眼差される、関係の内に入ってゆくことを通じて。
◆Gallery PARC 「此方(こなた)×彼方(かなた)」 10/29~11/10
2013年10月26日土曜日
2013年10月25日金曜日
GALERIE CINQ オープニング・エキシビション 井上明彦展「ふたしかな屋根」 (奈良市旧市街)
インスタレーション「雨宿りするレーニンのための習作」
雨とは、もっともストレートな意味での雨そのものから、まるで自然現象のような顔をして人々を抑圧し心身を縛り上げる資本主義の禍(わざわい)の喩まで、幅広いグラデーションをもっているが、それがめぐみの雨でないのは明白である(立場の異なる人にとっては「めぐみ」と解される場合もあろうが)。
そしてレーニンとは、理想世界を夢見る全ての人々の象徴としてあるのだろう。
トタン、鉄、木などの廃材や西アフリカの土顔料などでつくられたこの光景は、スラムの街で人々が暮らしを営む小屋を意味しているのだという。
メタフォリックな、あるいはシンボリックな図像が描かれた小屋の、どの屋根にも傾きがある。
物質やイメージなど様々な位相を横断するように、拡散するように、収斂するように、いくつもの寓意が込められている。
降り続く雨を避け、
レーニンは 軒下で佇んでいる
スラム化するこの惑星の片隅で
だが、
止まない雨はない
◆GALERIE CINQ (ギャルリ・サンク) 10/13~10/26
雨とは、もっともストレートな意味での雨そのものから、まるで自然現象のような顔をして人々を抑圧し心身を縛り上げる資本主義の禍(わざわい)の喩まで、幅広いグラデーションをもっているが、それがめぐみの雨でないのは明白である(立場の異なる人にとっては「めぐみ」と解される場合もあろうが)。
そしてレーニンとは、理想世界を夢見る全ての人々の象徴としてあるのだろう。
トタン、鉄、木などの廃材や西アフリカの土顔料などでつくられたこの光景は、スラムの街で人々が暮らしを営む小屋を意味しているのだという。
メタフォリックな、あるいはシンボリックな図像が描かれた小屋の、どの屋根にも傾きがある。
物質やイメージなど様々な位相を横断するように、拡散するように、収斂するように、いくつもの寓意が込められている。
降り続く雨を避け、
レーニンは 軒下で佇んでいる
スラム化するこの惑星の片隅で
だが、
止まない雨はない
2013年10月1日火曜日
稲富春菜展「存在のあと Traces of existence」 於、KUNST ARZT(京都・三条神宮道)
アクリルケースには、温度計を封じ込めた氷が存在していた。その氷は、作家自身の体内水分量と同じ体積の水を氷結させたものだという。
展覧会を訪れたのが5日目だったので、室温にさらされた氷はすべて融解し、水は天板に穿たれた孔を抜けて下の槽に溜まっていた。氷が載っていた天板には温度計が取り残され、その裏側には今にもしたたり落ちんばかりの水滴が微妙なバランスで付着している。そこから、幾分かの水は揮発し、氷が溶け落ちてもなお、この空間を共にする人々の熱に感応していることがわかった。
5日目というのは、そこに氷が存在していたことを確認するのにいいタイミングだったのだろう。
シャーレには一枚のオブラートが敷かれ、表面にクレーター状の窪みがひとつ。
これは稲富さんが育てている植物が、ある朝、葉先からしたたり落とした一滴の露の痕跡である。
これはギャラリー南面の窓である。風雨や排ガスが窓ガラスに付着させた塵や埃を"空気が行ったドローイング"とみなし、その中央部を丸く拭き取ることで、自然が人工物に施した場に作家が介入する。しかし交通量の多い三条通に面した窓は、会期中にも空気によるドローングは続いてゆき、鑑賞者はそのありさまを確認すべく目を凝らす。ここでは存在と時間をめぐる問いが投げられているようだ。(この写真では判別できないのが残念)
流動と循環をどこまでも繰り返す水という物質は、ときに恐ろしい一面をも見せつけるが、人が生きてこの世にあるかぎり、水との関係を絶つことはできない。生命にとって欠かせないものであるがゆえに、日常の中でそのありがたみを忘れてしまうこともある。しかし、ときに見せる美しい姿は私たちの心をとらえて離さない。そしてとらえられた心は、想像の翼を広げ飛翔してゆく。
稲富さんは自然現象を利用したり自然によって形づくられた場に介入したりすることで、自己と他者との間にある美術のあり方を、水という物質を通じて追究する。追究するのは美術のあり方であると同時に、人やモノや世界といった存在をめぐる様々な問題でもあるのだろう。
その営みからは、作品が自己と他者のみならず、他者と他者との、あるいは他者と世界との仲立ちとしても存在しうるということ、ひいては共にあることへの深い信頼が感じられた。
◆KUNST ARZT(クンスト・アルツト) 9/24~9/29
厚手のトレーシングペーパーでつくられた封筒にミルラという香油の原液(稲富さんが自身で抽出)が封入され、両の掌で挟むと熱で香油が溶け香りが立つというもの。来場者に配られたお土産である。
展覧会を訪れたのが5日目だったので、室温にさらされた氷はすべて融解し、水は天板に穿たれた孔を抜けて下の槽に溜まっていた。氷が載っていた天板には温度計が取り残され、その裏側には今にもしたたり落ちんばかりの水滴が微妙なバランスで付着している。そこから、幾分かの水は揮発し、氷が溶け落ちてもなお、この空間を共にする人々の熱に感応していることがわかった。
5日目というのは、そこに氷が存在していたことを確認するのにいいタイミングだったのだろう。
シャーレには一枚のオブラートが敷かれ、表面にクレーター状の窪みがひとつ。
これは稲富さんが育てている植物が、ある朝、葉先からしたたり落とした一滴の露の痕跡である。
これはギャラリー南面の窓である。風雨や排ガスが窓ガラスに付着させた塵や埃を"空気が行ったドローイング"とみなし、その中央部を丸く拭き取ることで、自然が人工物に施した場に作家が介入する。しかし交通量の多い三条通に面した窓は、会期中にも空気によるドローングは続いてゆき、鑑賞者はそのありさまを確認すべく目を凝らす。ここでは存在と時間をめぐる問いが投げられているようだ。(この写真では判別できないのが残念)
流動と循環をどこまでも繰り返す水という物質は、ときに恐ろしい一面をも見せつけるが、人が生きてこの世にあるかぎり、水との関係を絶つことはできない。生命にとって欠かせないものであるがゆえに、日常の中でそのありがたみを忘れてしまうこともある。しかし、ときに見せる美しい姿は私たちの心をとらえて離さない。そしてとらえられた心は、想像の翼を広げ飛翔してゆく。
稲富さんは自然現象を利用したり自然によって形づくられた場に介入したりすることで、自己と他者との間にある美術のあり方を、水という物質を通じて追究する。追究するのは美術のあり方であると同時に、人やモノや世界といった存在をめぐる様々な問題でもあるのだろう。
その営みからは、作品が自己と他者のみならず、他者と他者との、あるいは他者と世界との仲立ちとしても存在しうるということ、ひいては共にあることへの深い信頼が感じられた。
◆KUNST ARZT(クンスト・アルツト) 9/24~9/29
厚手のトレーシングペーパーでつくられた封筒にミルラという香油の原液(稲富さんが自身で抽出)が封入され、両の掌で挟むと熱で香油が溶け香りが立つというもの。来場者に配られたお土産である。
2013年9月23日月曜日
加世田悠佑"perceive" (KYOTO CURRENT 2013 より)
"強い主義が支配する現実。それのみをもって「最先端」や「時流」を定義することを安易に許してはならない"※と主張するディレクター・小島健史(こじまけんと)さんにもっとも近しい立ち位置にいることを、制作行為と作品によって示してきた加世田悠佑(かせだゆうすけ)さん。ここには、加世田さんがbudの群の向こう側に見出したものが仄めかされているのだろうか("bud"については過去の記事を参照)。
枠のような二つの鉄に画された空間に身をさらすなかで呼び起こされたのは、ジャン=リュック・ナンシーの以下の様な言葉であった。
「個々のイメージは無限の意味の有限な型取りであり、無限の意味はこの型取りによってのみ、あるいはこの区別の描線によってのみ無限であることが示されるのである。諸芸術が多様性と歴史性をもち、そこにおいて様々なイメージが溢れかえっているという事態は、この尽きることのない区別に対応するものである。」
(『イメージの奥底で』より。西山達也・大道寺玲央訳、2006年、以文社刊)
◆KYOTO CURRENT 2013 9/17~9/22
※KYOTO CURRENT 2013ディレクター・小島健史さんのステイトメント
2013年9月21日土曜日
ニュートラル・プロダクション(藪陽介・畠山雅弘)"raison d'être (レゾン・デートル)" 於、ギャラリーあしやシューレ(芦屋)
透明なパイプの中、下から風が送られる度に吹き上げられては落下する白いビーズの粒。
その度ごとに、上からは碧く冷たい光が射し照らす。
だが、美術がかくある存在の意義を知覚を通じて示唆することや、思索の入口へと導いてくれることもあるのだ。
そうして入口をくぐれば、「美術が・・・」という限定は仮枠としての用を終え、取り払われることだろう。
2枚の写真は中央に配された噴水状のインスタレーションを取り囲む四つの柱状オブジェのうちのひとつである。
◆ギャラリーあしやシューレ 9/18~10/6
その度ごとに、上からは碧く冷たい光が射し照らす。
その度ごとに、上へ、下へ、と翻弄される粒のひとつひとつが、何を連想させるかはもはや多言無用であろう。
人はしばしば、逆光によってしか浮かび上がりえぬ秩序、逆光という現象に気づかなければ認知すら難しい場所にいることがあるのだが、ふつうそれは何かしら実存をゆるがすほどの経験を通じて自覚するものである。だが、美術がかくある存在の意義を知覚を通じて示唆することや、思索の入口へと導いてくれることもあるのだ。
そうして入口をくぐれば、「美術が・・・」という限定は仮枠としての用を終え、取り払われることだろう。
2枚の写真は中央に配された噴水状のインスタレーションを取り囲む四つの柱状オブジェのうちのひとつである。
◆ギャラリーあしやシューレ 9/18~10/6
2013年9月18日水曜日
わにぶちみき展「Touch」 於、ギャラリーCLASS (奈良)
わにぶちさんといえば、ゆたかな色彩で塗り重ねられた画面の中央部を帯状に残し、上下を白い絵の具で塗りつぶして水平な線を表すことで知られるが、それは内と外、自己と他者、など何かと何かを画する境界線であったり、何かと何かを対照する際の基準線であるような、コンセプチャルな作風である。白という色の特性にも象徴性がある。
今回の個展でお披露目された新しいシリーズでは、これまでの路線を踏襲しつつも、ある明白な進化が窺えた。
塗りつぶす白が境界近くでは透明度が高まり、結晶状の単位が顕現。それにより境界線であることの抽象性は縮減し、その反面、風景画のようにも見えるなど具象性が微かながら増長している。
また、境界線は縦であったり斜めであったり、水平から解放されたことで、静謐さのなかに動きが感じられる絵となった。
「(絵画の平面が)境界面になることで、線が水平である必要がなくなった」とはわにぶちさん自身の言葉。
その他には白い地に言葉(文字)を連ねて線を表す、コンクリートポエトリーを髣髴とさせるシリーズも異彩を放っている。
旧作では複数のタブローが組になることの効果が大きかったが、それはタブローのオブジェとしての性格を軽視しないという姿勢によるものだろう。その姿勢はそのままに、新作ではタブロー1点でも作家の世界観を存立させうる強度が備わっている。そうして、視覚が一つの画面に滞留する時間は大幅に、それもごく自然なものとして伸びてゆく。
◆ギャラリーCLASS 9/11~9/29
今回の個展でお披露目された新しいシリーズでは、これまでの路線を踏襲しつつも、ある明白な進化が窺えた。
塗りつぶす白が境界近くでは透明度が高まり、結晶状の単位が顕現。それにより境界線であることの抽象性は縮減し、その反面、風景画のようにも見えるなど具象性が微かながら増長している。
また、境界線は縦であったり斜めであったり、水平から解放されたことで、静謐さのなかに動きが感じられる絵となった。
「(絵画の平面が)境界面になることで、線が水平である必要がなくなった」とはわにぶちさん自身の言葉。
その他には白い地に言葉(文字)を連ねて線を表す、コンクリートポエトリーを髣髴とさせるシリーズも異彩を放っている。
旧作では複数のタブローが組になることの効果が大きかったが、それはタブローのオブジェとしての性格を軽視しないという姿勢によるものだろう。その姿勢はそのままに、新作ではタブロー1点でも作家の世界観を存立させうる強度が備わっている。そうして、視覚が一つの画面に滞留する時間は大幅に、それもごく自然なものとして伸びてゆく。
◆ギャラリーCLASS 9/11~9/29
「SHOHEI×2」 於、橘画廊(大阪・西本町)
木の支持体に存在が内包する両義性を描く刀川昇平(たちかわしょうへい)さんと、出力した写真に手を加え印象を媒介する"絵"を描く吉野昇平(よしのしょうへい)さんの二人展。
刀川さんはシナベニヤの支持体に珪藻土とアクリル絵の具を混ぜて地塗りをし、その上に植物モチーフの形象を重ねてゆく。手前に浮き出すような葉っぱは植物を直接コピーしたものをシンナープリントで転写したものであるが、絞りを開放したF値の明るい大口径レンズで葉叢にピントを合わせた写真のようにもみえる。
葉、茎、種といった図像と、支持体とのアナロジー、そのイメージの重なりが想像への触媒になる。
それにより、ピントの合っていない、画面深部にある被写体までもが浮き上がってくるのだ。これは"見る"ということにまつわる、さまざまな問題系に私たちを導いてくれるのだが、そのための操作は最小限にとどめられている。
絵のような写真―吉野―と、
写真のような絵―刀川―と、
二人が昇る平らな場所には、ある確かな開かれがあった。
◆橘画廊 9/16~9/21
2013年7月18日木曜日
Director’s Eye #1 結城 加代子「SLASH/09 回路の折り方を しかし、あとで突然、わかる道順を」 於、the three knohana (大阪・此花)
特定のギャラリースペースを設けず、独自の視点と方法で展覧会を企画するディレクター・結城加代子さんによる関西初となるグループ展がthe three konohanaで開催されている。
このグループ展シリーズ「SLASH」は、結城さんが作家をセレクトしながらも、自己の一元的な視点にはよらず、作家たちの自律的な創造性に由来する異質な視点を共同によって練り上げていくところに特徴がある。今回の「SLASH/09」では小林礼佳さん、斎藤玲児さん、藤田道子さんの三人が抜擢された。
----------
展示室に入ってまず最初に目にするのは奇妙な文字列が記された防災ヘルメット。これは詩人としても活動する小林礼佳さんの作品である。
小林さんは、予期せぬ災害から身を守る備えとしての防災グッズに、日常の様々な出来事から繊細な心を守るため、つねに綴られるものとしての詩を載せる。
「千代子れ絵と」「パイナップル」・・・
ここにあるのはじゃんけんで階段を昇ってゆく遊びの、あの無意味な、それでいて脳裡にこびりつく響き。
そこから右に折れた場所にある非常用飲料水タンクには、作家が日常の中で綴った詩の断章。
「もしもし もしもし
この・・・・・・に落ちてくる信号を指で触るように確認した
・・・・・・・・・・・・・・・ひとつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
その向いの壁にあるのは数多の細い色糸を張りつめた藤田道子さんのインスタレーション。
時々刻々と変化する光の様相と、直線的に張られた糸の色の様相とが、いわく言い難い情緒を喚び醒ます。
色糸は「琴線」の換喩であると読み解いてもいいだろう。
梁方向に張られた糸は頭が触れそうな位置にあり、それより先への進入を拒絶する。そこで糸が発動する警戒信号と、それを感知して生じた距離感とによって、モノと知覚との相即性を否応なく思い知らされる。
藤田さんのインスタレーションとは反対側のサイド、二つの壁面に投影されるのは斎藤玲児さんの映像。
これは日常的に撮り溜められた動画や静止画をつなぎ合わせたものだろうか。あらかじめ秩序立った世界から切り取り、自己の主観の下に再編するという行為の意味を、基礎的なところから確認するように綴られた感がある。撮影されたモノや風景それ自体の意味は不明瞭だが、それだけに鑑賞者は"見る"ということ、そこにまといつく様々な問題の探求をまるで反照のように実存へと返されてしまう。
斎藤さんの映像が投影された二つの壁のうち右側の壁の向かい、東側の壁には小林さんが直射日光に晒し褪色させた銀色のエマージェンシー・シート(災害時・遭難時の防寒・暴風用シート)が張ってある。
これはギャラリーから少し東、六軒家川沿いの堤防上にある集会所兼カフェレストラン"OTONARI"の窓に見立てられたもので、透けるシートから覗き見えるテキストは小林さんが此花滞在中に書いた詩文である。空気の微かな揺れにも反応する軽いシートの動きによって、壁のテキストが見えたり隠れたり。
「窓から見えるどぶ川を臨む
暗い金がたなびくススキの穂
腐った魚の臭い
太陽に照らされた鼠の色
川の流れに逆行するダンボール
ダンボールは逆流しているのではない
動かないのだ、その位置から
流れに身をまかせながら、動かず不動の位置
植木鉢に植えてある造花のよう
私の見えているものが見えてない
見られているものが見えている
夜、街灯に照らされて水面が輝く
こちらの姿が本当のどぶ川?
川ではなく海なのです」
奥の畳の間へ入ると、そこでもまた妙に落ち着いたものたちと出会うことになる。
畳の間を抜けたところにある板の間を経て、ベランダから階下へと通ずる階段の下がこの展覧会の最深部であり、そこで流れる映像(斎藤さんの作品)を見た後、折り返しもと来た順路を戻ってゆく・・・。
----------
"回路"とはまず第一に作家の制作における思考の回路を意味すると思われる。そして次には、空間に配された作品と、鑑賞者が引いてゆく観覧の動線とによって自在に組み変わる関係そのものを意味するのだろう。それは作家の思惟や情緒が外部化されたものとしての作品と、鑑賞者の視覚と身体動作によって内部化される、相互的で円環的な働きが形成する回路である。そこから作家の制作における思考の回路を辿ってゆく手がかりが得られ、ひいては自己の内面の、断片化された記憶に曲線状の秩序が与えられることで外部世界との通路をつくりだすことも可能になる。その流れに現れるのは、社会性への/からの回路といっていいかもしれない。
そこにまで至ると、作品=静、鑑賞者=動、という布置すらも安定したものではなくなることだろう。私たちが自明だと思って疑わないものを支えていた仮構が、たとえ穏やかにであっても揺らぐことは避けられないのだから。だがあくまで回路であるからには、揺らいでおしまいとはならない。
言葉、モノ、光、音、空気、それらと知覚との相互作用を編みつほどきつしながら、とてもていねいにつくられたこの場所では、現代美術界にしぶとく延命しつづけるツリー状思考(一元的・超越的な立ち位置からの統合的な思考)からの脱却が賭けられているように思う。
結城さんは、モノの優位、言葉の優位、といった囚われがちな優劣関係の外側に出ることで作家たちとの共同を成功に導いたのだろう。
そしてギャラリーオーナー・山中俊広さんの存在も、ここに独特の味わいを付加しているに違いない。
◆the three konohana KAYOKO Y UKI 6/7~7/21
このグループ展シリーズ「SLASH」は、結城さんが作家をセレクトしながらも、自己の一元的な視点にはよらず、作家たちの自律的な創造性に由来する異質な視点を共同によって練り上げていくところに特徴がある。今回の「SLASH/09」では小林礼佳さん、斎藤玲児さん、藤田道子さんの三人が抜擢された。
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展示室に入ってまず最初に目にするのは奇妙な文字列が記された防災ヘルメット。これは詩人としても活動する小林礼佳さんの作品である。
小林さんは、予期せぬ災害から身を守る備えとしての防災グッズに、日常の様々な出来事から繊細な心を守るため、つねに綴られるものとしての詩を載せる。
「千代子れ絵と」「パイナップル」・・・
ここにあるのはじゃんけんで階段を昇ってゆく遊びの、あの無意味な、それでいて脳裡にこびりつく響き。
そこから右に折れた場所にある非常用飲料水タンクには、作家が日常の中で綴った詩の断章。
「もしもし もしもし
この・・・・・・に落ちてくる信号を指で触るように確認した
・・・・・・・・・・・・・・・ひとつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
その向いの壁にあるのは数多の細い色糸を張りつめた藤田道子さんのインスタレーション。
時々刻々と変化する光の様相と、直線的に張られた糸の色の様相とが、いわく言い難い情緒を喚び醒ます。
色糸は「琴線」の換喩であると読み解いてもいいだろう。
梁方向に張られた糸は頭が触れそうな位置にあり、それより先への進入を拒絶する。そこで糸が発動する警戒信号と、それを感知して生じた距離感とによって、モノと知覚との相即性を否応なく思い知らされる。
藤田さんのインスタレーションとは反対側のサイド、二つの壁面に投影されるのは斎藤玲児さんの映像。
これは日常的に撮り溜められた動画や静止画をつなぎ合わせたものだろうか。あらかじめ秩序立った世界から切り取り、自己の主観の下に再編するという行為の意味を、基礎的なところから確認するように綴られた感がある。撮影されたモノや風景それ自体の意味は不明瞭だが、それだけに鑑賞者は"見る"ということ、そこにまといつく様々な問題の探求をまるで反照のように実存へと返されてしまう。
斎藤さんの映像が投影された二つの壁のうち右側の壁の向かい、東側の壁には小林さんが直射日光に晒し褪色させた銀色のエマージェンシー・シート(災害時・遭難時の防寒・暴風用シート)が張ってある。
これはギャラリーから少し東、六軒家川沿いの堤防上にある集会所兼カフェレストラン"OTONARI"の窓に見立てられたもので、透けるシートから覗き見えるテキストは小林さんが此花滞在中に書いた詩文である。空気の微かな揺れにも反応する軽いシートの動きによって、壁のテキストが見えたり隠れたり。
「窓から見えるどぶ川を臨む
暗い金がたなびくススキの穂
腐った魚の臭い
太陽に照らされた鼠の色
川の流れに逆行するダンボール
ダンボールは逆流しているのではない
動かないのだ、その位置から
流れに身をまかせながら、動かず不動の位置
植木鉢に植えてある造花のよう
私の見えているものが見えてない
見られているものが見えている
夜、街灯に照らされて水面が輝く
こちらの姿が本当のどぶ川?
川ではなく海なのです」
奥の畳の間へ入ると、そこでもまた妙に落ち着いたものたちと出会うことになる。
畳の間を抜けたところにある板の間を経て、ベランダから階下へと通ずる階段の下がこの展覧会の最深部であり、そこで流れる映像(斎藤さんの作品)を見た後、折り返しもと来た順路を戻ってゆく・・・。
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"回路"とはまず第一に作家の制作における思考の回路を意味すると思われる。そして次には、空間に配された作品と、鑑賞者が引いてゆく観覧の動線とによって自在に組み変わる関係そのものを意味するのだろう。それは作家の思惟や情緒が外部化されたものとしての作品と、鑑賞者の視覚と身体動作によって内部化される、相互的で円環的な働きが形成する回路である。そこから作家の制作における思考の回路を辿ってゆく手がかりが得られ、ひいては自己の内面の、断片化された記憶に曲線状の秩序が与えられることで外部世界との通路をつくりだすことも可能になる。その流れに現れるのは、社会性への/からの回路といっていいかもしれない。
そこにまで至ると、作品=静、鑑賞者=動、という布置すらも安定したものではなくなることだろう。私たちが自明だと思って疑わないものを支えていた仮構が、たとえ穏やかにであっても揺らぐことは避けられないのだから。だがあくまで回路であるからには、揺らいでおしまいとはならない。
言葉、モノ、光、音、空気、それらと知覚との相互作用を編みつほどきつしながら、とてもていねいにつくられたこの場所では、現代美術界にしぶとく延命しつづけるツリー状思考(一元的・超越的な立ち位置からの統合的な思考)からの脱却が賭けられているように思う。
結城さんは、モノの優位、言葉の優位、といった囚われがちな優劣関係の外側に出ることで作家たちとの共同を成功に導いたのだろう。
そしてギャラリーオーナー・山中俊広さんの存在も、ここに独特の味わいを付加しているに違いない。
◆the three konohana KAYOKO Y UKI 6/7~7/21
2013年7月5日金曜日
南野馨 展 於、ギャラリー白3 (大阪・西天満)
いくつもの切り子面からなるパーツが組み合わさった陶製の正二十面体が、三重の入れ子構造になったオブジェ。
正二十面体とは三次元空間における最大面数の正多面体であり、作品化されたそれは多数の平面によって構成される球状体のようなものである。作品における平面とは一般にはアウラを放射する顔であるとともに、主体がイメージを投影する対象表面としての役割を果たす。
南野さんの作品は三重の入れ子構造に加え、見えたり隠れたりするいくつもの切り子面の存在が視点の移動による多彩な図形の顕現を可能にし、そこにイメージとアウラとが関係する場を生じさせる。
一番外側の黒い層は割り引かれたパーツによって空間へと開口され、真ん中の白い球体を抱擁する形になっており、開口部からは白い球面が露出。さらにその白い球体の内面には平面構成の黒い正二十面体が密着して核に据えられる。
パーツは肉抜きされ、丸や三角の穴からは様々な角度で中を覗けるようになっているが、向こう側まで見通すには特定のポイント、特定の角度を探らなければならない。
そんな南野さんの作品を詩的に読み解くとするならば、まずはプラトンが五つの正多面体のそれぞれに象徴的意味を割り当てたことが想起される。正四面体=〈火〉、正六面体=〈土〉、正八面体=〈空気〉、正十二面体=〈水〉、というように五つの内の四つを西洋において万物を構成すると考えられた四大元素の象徴とし、最大面数の正二十面体を四大元素を超越した〈宇宙〉の象徴と考える説である。正二十面体が宇宙を象徴するのは、それが完全なる美質を備えた立体であることによるのだろう。
しかしプラトンの所説を知らなくても、この作品が焼き物であるというだけで土・水・空気・火の四大元素すべてが関係していることが理解できるわけだから、そこから世界の喩になりうるし、点・線・面が複雑に組み合った入れ子構造であることは世界観の喩にもなりうる。作家の世界観が提示されるものとしての芸術作品それ自体が世界観の喩にもなるという重層性は、オブジェそのものが重層性をもった構造であるだけに興味深い。
また緻密な設計によって制御困難な素材を制御し、精確に組み上げた構造物であることも、なにかしらシンボリックな想像を促してくれる。
とはいえ、説明的なものや有機的なものの一切が消去されているため、伏蔵されたものへの思惟や解釈は無限に広がってゆく。
◆ギャラリー白3 6/24~7/6
2013年7月3日水曜日
『現代詩手帖』7月号「【特集】藤井貞和が問う」
「日本社会が亡霊に取り憑かれている。政治家たちに取り憑く亡霊、企業のmoralを見喪わせる亡霊、御用で学者を誘惑する亡霊、・・・・・・。」
こう書き出される藤井貞和さんの巻頭提言「声、言葉――次代へ」から始まり、和合亮一さんと藤井さんとの筆談、若き日々をともに駆け抜けた巌谷國士さんが語る藤井さんの思い出、阿部嘉昭さんによる長篇論考「換喩の転位、転位の換喩」、藤井さんと金時鐘さん倉橋健一さんらによる対談の記録、『東歌篇――異なる声、独吟千句』(2011年9月刊)全文、などなど・・・。
40年以上前から今に至るまで詩と国文学の第一線で活躍し、時事的・政治的課題にアンガージュする藤井貞和さんのアクチュアリティに多面的に迫る特集になっています。
未来へ向けた、新たな読みへの布石として。
私も特集を締めくくる形で「貞和(ていわ)と竹村(ちくそん) ―応ふるに記録映画を以てす」という論考を掲載しております。
藤井さんの福島への旅を記録したドキュメンタリー『反歌・急行東歌篇(はんか・きゅうこうあずまうたへん)』(竹村正人監督)のこと、政治と美学の不可分性、表現にまといつく超越性と内在性の葛藤、などについて11枚あまり書きました。
【増頁特集】藤井貞和が問う
◎巻頭提言
藤井貞和「声、言葉――次代へ」
◎対話
和合亮一+藤井貞和「眼で聴く、耳で視る――筆談」
◎シンポジウム
金時鐘+藤井貞和+細見和之+たかとう匡子+倉橋健一「言葉と現実」
◎特別掲載――東歌篇
藤井貞和「東歌篇――異なる声 独吟千句」
桑原茂夫「注記――東歌篇から引き出されたことの数々」
◎長篇論考
巌谷國士「藤井貞和の思い出――ある種の怪人について」
◎同時代に生きて
高橋悠治、川田順造、鈴木志郎康、佐々木幹郎、兵藤裕己
◎詩集を読む
北川透、吉田文憲、阿部嘉昭、田野倉康一
◎物語・南島・詩
瀬尾育生、高良勉、大橋愛由等、新井高子
◎詩人へ
鈴村和成、小池昌代、藤原安紀子、文月悠光、京谷裕彰
◎長篇詩
建畠晢「轟云々、下駄云々――緑の布に生まれてきた女」
◎作品
石牟礼道子、川口晴美、宮内憲夫、高塚謙太郎
◎連載
粟津則雄、野村喜和夫、杉本 徹、齋藤恵美子、関悦史、山田航
◎Book
平岡敏夫、暁方ミセイ、榎本櫻湖、江田浩司、笠井嗣夫、後藤美和子
◎月評
中本道代、瀬崎祐
◎新人作品
紺野とも、子猫沢るび、桜井夕也、和合大地、浅野陽、
岡本啓、山崎修平、草間小鳥子、橋本しおん
◎新人選評
石田瑞穂、福間健二
増頁特別定価1500円(税込)
◆思潮社
2013年6月30日日曜日
つかもとよしつぐ展「家事が美術」 於、GALLERY wks. (大阪・西天満)
「青春の洗濯」。作家がかつて描いた絵を洗い流し、乾かしたもの(瓶の中身は洗い水)。
8ミリフィルムを漂白剤溶液で瓶詰めにした「漂白の民からのフィルムレターシリーズ」(左より、「日本海を撮影したのだが、真っ黒だった思い出」「枝を剪定するおじさんとの思い出」「なぜ消化器を撮影したのかわからない赤」「映画に使われなかったマンション」)。
「ふとんの山をたたみ終え、隙間を覗きこむと、グランドキャニオンが覗き見えたのだ。」
筒を覗くと古い8ミリ映画が流れている。
「終わらない洗い物と 決まっていない手順書
スイッチを踏む、霧吹きで植物に水をあげる、洗剤を入れる」
OHP脇のワゴンにはお茶、洗剤、霧吹き、植物などがならぶ。
OHPのデッキ上に設えられたアクリルトレーには水が張られ、そこから物語が展開する。
デッキの表面、アクリルトレーの底、水中、水面、ミラー、という複数の平面を一つの光が透過、反射し、最後の平面である壁面へと投影される。
感熱紙にアイロンでドローングした「アイロン山水図」(右)
「照明器具のひもを引くと、カーテンが揺れて、ゆっくりと
レースの隙間に挟まってゆくので、照明器具のひもを引っ張ってください」
★★★★★★★★★★★★★★★★
〔つかもとよしつぐ(プロジェクション)×木村由(身体表現)によるパフォーマンス「ちゃぶ台ダンス」2013.6.8の記録〕(つかもとよしつぐのソロパフォーマンス「アイロン山水図」には間に合わず)
★★★★★★★★★★★★★★★★
細胞状の塊はオリーブオイルに洗剤の泡がからまったもの。赤い染みはトレーとデッキとの間に私が注いだ赤ワイン。
この一回性に宿命づけられた作品は、作家により「終わらない洗い物と批評家の赤い葡萄酒」と命名された。
◆GALLERY wks. 6/1~6/15
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