2014年9月23日火曜日

栗棟美里 "FILM Installation" 【TRACE FILM BAR】-01  (京都)

時間にうつろう現存在の儚さ、壊れてしまったものへの愛おしみ、そして再生への展望を込めたシリーズ〈Crush〉の最新版はドゥルーズの大著『差異と反復』から着想を得たインスタレーションである。

それぞれのパネルには割れたDVD-Rの写真がプリントされており、 7列×7列、計49枚が壁に並ぶ。
これらのディスクは大量生産された、さして珍しくもない器物ではあるが、ひとつとして同じ割れ方をすることはない。

室内は暗い。

この壁の反対側からは水琴窟の音が響き渡り、水滴のリズムに連動してディスクの一枚一枚に青いスポット光が照射され、割れ目にあしらわれた銀箔がきらめく。

ところで"7"は、ヒンドゥー教の〈七つのチャクラ〉、キリスト教の〈七つの罪〉〈七つの徳〉、一週間〈七曜〉に配された天体、などを想起させる。
また"49"は、仏教において死者が此岸と彼岸との狭間にいる日数とされる。

ディスクが記憶媒体として製造されたものであることも、忘れないでおきたい。

破砕されたディスクの欠片は、床面で永遠を象徴する"∞"にかたどられている。


【TRACE FILM BAR】-01 Misato Kurimune "FILM Installation" @trace 2014.9.20-23

会場のtraceは京都水族館北側としておなじみであるが、ここは平安京では左京八条一坊十六町に位置しており、12世紀以降短世代で土地が売却され所有者が転々と変わった末、東寺領となったことが分かっている(角田文衛監修『平安京提要』〈1994,角川書店〉を参照)。


車史噯(Cha sae) 展 「on the line」 於、ギャラリー白(大阪・西天満)

左と右、上と下、いずれもキャンバスの長辺に平行した線によって中央を分かつ構図がとられている。
これらの抽象絵画は、植物がモチーフである。
それが喩的なものや象徴的なものを喚起する手がかりとなる。
画面中央の線は植物の茎か葉脈の中央脈を思わせる。

線から外側へ流れ出すようにも、線へと流れ込むようにもみえる。
境界であるようにも、中心であるようにも。

動きを表す要素は、補色の関係にある赤と緑によって描かれている。

これは、ある対極的な性質のもの同士が、あるいは同質的でありながら対極的な布置にあるもの同士が、そこを軸に交わりをなすことが示唆されているようだ。
だが、それがどのような交わりであるかの解釈は、鑑賞者にゆだねられる。
あるいは・・・。




車史噯(Cha sae) 展 「on the line」 ギャラリー白 2014.9.22~9.27

2014年9月22日月曜日

林真衣 展 於、Oギャラリーeyes (大阪・西天満)

「ミラーカーテン 07」(112×324㎝)

ミラーカーテンとは熱や紫外線や外部からの視線を遮断し、必要な光だけを部屋に入れるカーテンのことだそうだが、林さんはカーテンに世界を映す鏡としての相をみる。
それは、内と外との境界を画する窓にしつらえられた、大切なものを保護するやわらかな幕である。


ハンドミキサーで泡立てた絵の具をキャンバスに流し込み、乾燥するなかで泡がはじけたり皺になったり、肌理が生成してゆく途上において描画する。
絵の具と油の配分、気温や湿度の違いによっても仕上がりが異なるという。
揺れ動くカーテンに映る光や影、その向こう側に広がる風景が、日々の記憶を宿すようにそこに集められる。

壁に掛けられたキャンバスを窓に見立てるならば、眺める私がいる場所は部屋であろう。

絵肌を眺めていると、〈襞〉という概念を想起した。

「Dear ムラサキノサキ」

紫、とは深遠なるものの象徴でもある。


◆林真衣展 Oギャラリーeyes 2014.9.15~9.20




2014年9月12日金曜日

山岡敏明 展「Phangutic」 於、GLAN FABRIQUE la galerie (大阪・茨木)


グチックguticとは、具象的かつ抽象的な、しかしそのどちらでもない原初的で未分化な形象である、と山岡作品の鑑賞者の間では一般的に了解されている。

例えば「グチックとはAである」という命題が提示された瞬間、グチックの現前は非Aへとすり抜けることを免れえない、そんな特徴がある。

私は2013年3月の個展会場(ギャラリーPARC)で「GUTICとは何か?」なるアンケートに、
現象するモノやコトの彼方から意識を引っ張る力。あるいはその力がたまさか表した形相(けいそう)」
と回答したのだが、何かを言い当てたような気分が持続する時間はそう長くない。

ならばグチックが一体なんであるのかは、鑑賞者の数だけ答えがあるとしか言いようがない。この事実もまた、山岡作品の鑑賞者の間では一般的に了解されている。
しかし面白いのは、つねに終わりのない力動性のなかに身を置く山岡自身においてすら、われわれと同様、時間のなかで都度異なる答えに至っているようにみえることだ。

タブローとして、またオブジェとして提示された作品は、山岡にとって直感的に納得できる形で現れたものを、ひとまずの形として凍結した、ということだろうか。
あるいは、提示されたものとは異なるものの現前が示唆されているのだろうか。

いずれにせよグチックは、「現実とはなにか?」「形とは何か?」「芸術とは何か?」「存在とは何か?」といった問いを、それ自体に内包していることだけはたしかである。

私にとってはグチックという芸術も芸術家としての山岡敏明も、ともに深い謎なのだが、その解明への欲求を落ち着かせなければそもそも入り口にすら近づけそうにない。ここはひとつ、ハイデッガーの言葉を引用して、昂揚した自我を鎮めたいと思う。

芸術それ自体が謎である。謎を解くという要求は筋道を外れている。謎に遭遇することが課題となる。

(関口浩訳『芸術作品の根源』平凡社ライブラリー版131頁)


(この写真は、グチックがドローイングを通じて生成変化していく様子をアニメーションによって捉えた映像の一齣である)



山岡敏明 展「Phangutic(ファングチック)」 GLAN FABRIQUE la galerie 2014.9.4~ 9.23
   

2014年9月6日土曜日

浅野綾花 展「ここに住んでいる」 於、gallery&space SIO (大阪・南船場)

「ヴィーナスアットホーム」

「谷町九丁目に来れば」


ひとつひとつの作品は、作家と近しい人々の実在する(私的な)物語がモチーフになっている。

版を重ねる過程で、風景は切り取られ反復される。

昨日と同じ場所に立ってみたとて、今日も同じ景色が見えるとは限らない。

(いな、そもそも同じではありえない)

ささやかな親密圏を大切にすることと、インターフェイスをひらくこと。

その両立はいかにして可能か?

この展覧会はかかる問いへの回答でもあるだろう。


「おかえりフラッグ」

「谷町と翼」
画面左奥のビルはあべのハルカス


◆浅野綾花 個展「ここに住んでいる」 gallery&space SIO 2014.8.25~9.7


YOSHINORI HENGUCHI "LIZARD TELEPATHY FOX TELEPATHY" CHIN MUSIC PRESS,SEATTLE, 2014



啓示というほど大層なものではない、降ってくるマヌケな言葉のオートマティスムによって、一見非現実的なイメージの火花に笑いがこぼれるのは必定ともいえる。
ところがその笑いの意味を理性的に解きほぐした瞬間、恐るべきリアルに直面する点で、すぐれたシュルレアリスムの実践ともいえるのだが、辺口本人が自身の詩法についてそんな自覚をもっているかどうかは謎だし、そのような説明が無効となる作品も少なくない。
なにより、分析的な読解などになずんでいるあいだに取り残されてしまうだろう(何に何が取り残されるのだ?)。

言葉はすべて等身大。
ビートニクのエートスと、猥雑にして誠実な抒情、そして寓意的な物語が其処彼処に現れるアナーキー。


詩人・辺口芳典の、写真家としての相貌も窺える編集になっている。

YOSHINORI HENGUCHI (辺口芳典)”LIZARD TELEPATHY FOX TELEPATHY (トカゲのテレパシー キツネのテレパシー)” Chin Music Press,Seattle  
(David Michael Ramirez Ⅱの英訳によるバイリンガル詩集)

2014年9月3日水曜日

拙稿「交わりの重なりから夢想の回帰へ ~関西圏における二つの潮流」(『現代詩手帖』2014年7月号「【特集】詩からアートへ/アートから詩へ」)未掲載写真図版

岩名泰岳「ドローイング」(2013.10/ギャラリーあしやシューレでの個展) 

高木智広「落鳥の森」(2013.1/グループ展「溶ける魚 つづきの現実」より)
夏を迎えようとしていたある朝、家の前の道路に鮮やかな青いカワセミが落ちて死んでいた。その時、頭の中にこの鳥を帰すべき原始の森のイメージが立ち現れ、それを夢中で描いたのが落鳥の森という絵だ。まるで天からの啓示のような美しい鳥が何処からやって来たのか不思議にも思うが、私も原始の森の中に出来た街に住んでいることをこの鳥が思い出させてくれた。無意識が意識の一部であるように、人間も自然の一部なのだから、共に暮らしていけると私は信じたい。(作家ステイトメントより抜粋)

 田中秀介「越えてきた眼前」(2013.12/グループ展「夜水鏡みがかず見るよ - 死と詩 -」より)

 しまだそう「少年少女の※諸々モメロケット図鑑(カラー版)」(2011)


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掲載が叶った下の1点もモノクロ図版だったので、カラーにて。
岩名泰岳「ドローイング」(2011.10/HANARART2011




◆思潮社『現代詩手帖』2014年7月号「【特集】詩からアートへ/アートから詩へ」

建畠晢+保坂健二朗+田野倉康一
「新しい関係性のはじまりへ――イメージ・言葉・資本」
◎座談会
白川昌生+小野田賢三+住友文彦+三角みづ紀(用語解説=小野田藍)
「生きる場のリアルに寄りそうために――前橋から歩きはじめる」
◎対話
蜂飼耳+荻野夕奈「日記を書くように――新しいコラボレーションのために」
◎コラボレーションⅠ――Female times
蜂飼耳、暁方ミセイ、三角みづ紀、杉本真維子、文月悠光
Bunkamura Box Gallery「Female times Ⅲ 新たな時代を刻む、女性美術家5人展」とのコラボレーション)
◎コラボレーションⅡ――詩をアートする
横山裕一「田中庸介「嗜虐的お化け屋敷の様相」に」
富田菜摘「大岡信「なぎさの地球」に」
◎論考Ⅰ――アートの生れる場所
管啓次郎、川延安直、杉本真維子、京谷裕彰
◎論考Ⅱ――作家論
時里二郎、江尻潔、田中庸介、橘上

◎作品
北川朱実(詩歌文学館賞受賞第一作)、タケイ・リエ
◎連載詩
川田絢音(短期集中連載最終回)、岡井隆+関口涼子

◎連載
城戸朱理(「洪水の後で」最終回)、粟津則雄、近藤洋太、
金子遊、境節、青木亮人、吉田隼人
◎Theater
富岡幸一郎、谷内修三
◎月評
水島英己、榎本櫻湖
◎新人作品
森水陽一郎、照井知二、田中さとみ、橋本しおん、
山崎修平、草野理恵子、板垣憲司、小縞山いう
◎新人選評
中尾太一、中本道代

定価1280円(本体1185円)


2014年9月2日火曜日

wtnb..kana(Kana Watanabe)個展「10このみずたまり」 於、橘画廊(大阪・西本町)


さやかなる 海の底から覗く青 透きとおる 空の上から射す黄色

魅入られ火照る眼 ほとばしる 闇の深み 返る冷気にいすくまる

近くから かがやき響く元素のささやき 分子の時間 ほころびる枠

遠くから 招かれ至る生のうごめき 細胞の部屋 眠る水

流動しながら静止する 滞留しながら循環する

届くゆらぎは 移ろう青に 黄色く澱んで黒く光る 澄みと濁りの彼岸へと

水の圧力 意識の張力

苦と快の双曲線 つめたくあたたかい 異境の夢見 入り交じり

見上げる水面は 見下ろす底に

おぼろに巡る転位から 開かれる世界 




(会場配布用リーフレットに寄せたテキスト)







wtnb..kana(Kana Watanabe)「10このみずたまり」  橘画廊 2014.9.2~9.20