例えば「グチックとはAである」という命題が提示された瞬間、グチックの現前は非Aへとすり抜けることを免れえない、そんな特徴がある。
私は2013年3月の個展会場(ギャラリーPARC)で「GUTICとは何か?」なるアンケートに、
「現象するモノやコトの彼方から意識を引っ張る力。あるいはその力がたまさか表した形相(けいそう)」
と回答したのだが、何かを言い当てたような気分が持続する時間はそう長くない。
ならばグチックが一体なんであるのかは、鑑賞者の数だけ答えがあるとしか言いようがない。この事実もまた、山岡作品の鑑賞者の間では一般的に了解されている。
しかし面白いのは、つねに終わりのない力動性のなかに身を置く山岡自身においてすら、われわれと同様、時間のなかで都度異なる答えに至っているようにみえることだ。
タブローとして、またオブジェとして提示された作品は、山岡にとって直感的に納得できる形で現れたものを、ひとまずの形として凍結した、ということだろうか。
あるいは、提示されたものとは異なるものの現前が示唆されているのだろうか。
いずれにせよグチックは、「現実とはなにか?」「形とは何か?」「芸術とは何か?」「存在とは何か?」といった問いを、それ自体に内包していることだけはたしかである。
私にとってはグチックという芸術も芸術家としての山岡敏明も、ともに深い謎なのだが、その解明への欲求を落ち着かせなければそもそも入り口にすら近づけそうにない。ここはひとつ、ハイデッガーの言葉を引用して、昂揚した自我を鎮めたいと思う。
「芸術それ自体が謎である。謎を解くという要求は筋道を外れている。謎に遭遇することが課題となる。」
(関口浩訳『芸術作品の根源』平凡社ライブラリー版131頁)
◆山岡敏明 展「Phangutic(ファングチック)」 GLAN FABRIQUE la galerie 2014.9.4~ 9.23
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