ここに、ひとかたまりの紙の束がある。
それは頁には違いないのだろうけど、綴じられていないため、頁というにはなにか違和感を催すし、葉(リーフ)といってみたくもなるがそれでいいのかどうかよく分からない。一応、表紙らしき紙にくるまれてはいるが、なにしろ片面にだけしか印刷されていないので、詩の書かれた紙の束とでも呼ぶのが一番しっくりくる。試みに一枚抜き出してみる。
背中へと 夜風に紛れ忍び込みました
何が忍び込んだのだろうか? 夜風に紛れるほどの何が背中に? もう一枚抜き出してみることにしよう。
それは質量のない 宙にふわり浮く悲しみ
私は沈黙を強いられるほかない・・・。
まだこれだけでは意味を読むことへのこだわりから解放されようもないが、キーボードを叩きつつ顎の下に置いた紙の束からてきとーに引っ張り出したとは思えないほど自然なのは超自然ではないか? などと不可思議な愉しみに出会った興奮に、はからずも理性が攪乱されることにマゾヒスティックな悦楽を感じずにはいられない。さらにもう一枚引くとどうか。
君も照明器具なら、すこしは夜についての勉強くらいしたらどうだ!
・・・。
閉口してみたところで、誘惑はますます亢進してくるではないか。
常に私の真ん中にあった月
それは栓のようなもので
決してぽかりと空いた
穴なんかではなかった
これを処されてしまった意味の刑から逃れて読むことが出来るなら、どれだけ気楽かとも思うが、どの頁(?)を引いても不思議に繋がりが見いだせるのはいったいどういうからくりによるのだろうか。1枚に1行~数行の詩行が印刷されたそれは、1枚がひとつの連のようなものと解せられるが、脈絡が生まれる論理がいっこうに分からない。分からないが、その気になれば持ち合わせの言語学理論で説明できなくもなさそうだ。だが、今はその気にならないからどうでもよい。
思い出すあの秋、海辺の君に
ああ、そうか、やはりエロイヌイの影をみていた
エロイヌイって何だ? Google先生に質問することはやめておこう。詩人にとっての人生の特別な時間についての詮索も、「野暮だから」とかいう理由ではない理由でやめておく。
死は重力だ。心がひかれてぽとりと落ちる。
なんだか重い詩行と出会ってしまったが、重いと感じるほどにその意味が察せられ、さらには安堵に近い感情をもたらしてくれるのはどういうことか。それは軽さか?
私たちは私たちにしか分からない言葉でくすくすと笑った
そりゃあなたたちにしかわからない言葉かもしれないけど、こうやって紙を引っ張り出して読み始めた以上、他人のことを他人事として読むわけにはいかないじゃないか。どうしてくれるんだい。
夜、手を狐にしてひとり遊ぶ癖
そういえば枕もとのスタンドが照らす光に、狐に限らず犬や蟹やわけのわからん動物を投影してもらうことを子どもの頃よくしたな。こういう対話形式で話が繋がるのもどこまでか? と疑い深くなったので、連続して引いてみる。
もう一度会いたい人を数えはじめたら 夜が終わって 朝も来ない
昨夜からやたら喉が痛いと思ったら、細い月が刺さっていたようですね
「どなたとどちらまで?」湿っぽい半月が訊ねてくる
昨夜あまりになみなみと月を見たせいか まくらに少しだけこぼれていた
言わなくていい事と言ってはならない事
両方を奥歯に挟み込んだまま私は
両面二枚使いの舌の上で
あとは静かに言葉を滑らせるだけ
うう・・・。
以上はキュレーター・美術批評家、野口卓海(のぐちたくみ)が頓知集団hinemos(ひねもす)のグループ展で初公開した詩集『一行のための習作』(2014年,hinemos社)で遊んだ、何ほどのことでもない記録であるが、やらせではなく本当の話だ(つまり、紙を引きながら本稿を書いたのだ)。
野口は「あとがき」で以下のようにいう。
「この詩集は題名にもあるとおり、その一行を探すための習作でしかありません。前後関係なんて一切なくて、ページの並び方も一冊一冊ばらばらにしています。だから読み返すその時々の天候や季節・体調によって、印象のちがった一行が顔を覗かせるかもしれません。辻占のように使っていただいても勿論かまわない。」
たしかに辻占のように使えそうな気にもなるのだから、その機制を研究してみる価値はありそうだが、そう考えた端から挫折を余儀なくされそうな気になるのでやめておくのが無難だろう。
密かに書き綴っていた詩を、美術界とオルタ界の狭間、頓知集団とやらの展覧会で公表し、詩人であることをカミングアウトした野口卓海。
彼に続く人物が美術界やオルタ界に現れることに期待してみようじゃないか。
◆ウェブマガジン『詩客 SHIKAKU』自由詩時評 第124回(2014.6.8,詩歌梁山泊)より転載
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