山本さんの作品では、置いた紙の下にあるものは全て一円玉であり、こする際の力の入れ具合や一円玉の傷み具合、あるいは鉛筆芯の硬さなどによるのであろうか、ドットとしての一円玉を浮かび上がらせる濃度の違いによって絵画が構成される。
まず最初に目に入るのは、ギャラリーの入り口付近に四つほどかかった小さめのタブロー(とひとまず呼んでおく)が、何かの部分を表したものであることに注意が行くものの、それよりもその奥、右手に大きな壱万円札、左手にやはり大きな1ドル札が掛けてある、それらのビジュアルに視線が否応なしに奪われる。日本国の最高額紙幣とアメリカ合衆国(かつ基軸通貨)の最低額紙幣とが対峙しているという、その対が面白い。
なるほど、大したものだなぁ、などとのんきにお札へと近づいてゆく。
すると、床を踏みしめる感触の異様さに気づき足下を凝視したところ、ギョッとしてしまった。床には一円玉がぎっしりと敷き詰められているのだ。
このときの「ギョッ」は、ハプニング集団「プレイ」のメンバーである水上旬さんがダダカン(糸井貫二)師から送られたメールアートに半分燃えた壱万円札が五枚入っていたのを見たときの「ゾッ」とした感覚※に近い、ような気がする(もちろん憶測なのだが)。
山本さんによると、敷き詰められた一円玉は11万円分にもなるとのこと。
さて、今私たちが日常使っている通貨というものが、自給自足ではなく交換によって必要な物資を獲得する際に使われるものであることは、実のところ自明ではない。
物々交換は有史以来現在にいたるまで世界の各地で行われているし、米などの穀物や布などが現物貨幣として使われた歴史もある。今私たちが使っている通貨とは、それを発行する権力によって価値が保証されていなければならない代物なのだ。もちろん、通貨発行権力も自明のものではない。通常は国家や国家の連合が通貨の価値を保証するが、地域通貨のように地域の共同体が価値を保証するケースもある。
山本さんの展示は、通貨の、一円玉の原料であるアルミニウムの、美術品としての、さまざまな価値の自明性の仮構を、作品のビジュアルや通貨をめぐる諸観念、鑑賞に伴う動作からくる身体感覚などによって宙づりにする、極めてアクチュアルな実践ではないかと思った。コンセプチャルな、という言葉では足りないくらいに。
そうしてひとわたり見ておったまげた後、再び出口近くに戻ったとき、四つのタブローが西洋美術史におけるマスターピースであることがすべて了解できた。入るときの視覚の距離感と、入り口に戻ってきたときの距離感との違いが結像に影響したというわけだ。
◆山本雄教 展「EXCHENGE」 gallery Maronie 2015.4.7-4.19
※赤瀬川原平『反芸術アンパン』(1994,ちくま学芸文庫)180頁
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