思えば本書の新装版を、当時出ていた第1分冊から第4分冊まで購入したのが2002年の夏。第5分冊の新装版が出て購入したのが2003年だった。当時はヤスパースの他の著作とネグリやドゥルーズの著作との間を行ったり来たりしながらも、『真理について』だけは索引などを使って拾い読みすることしかできず、数あるヤスパースの著書の中でも特別な書であることはすぐに了解できた。
そうしてようやく通読・読解に取りかかれたのが2011年の1月。おおよそ1年に一冊のペースで読解しつつ4年もかかってしまったが、この時間には私自身にとっても、またこの世界の情勢を照らしてみても様々な意味があったと思う。三方向から挿入した無数の付箋や傍線や書き込みには、私にとってその数や量では測れないものが包まれている。
ところで、ヤスパースから献本された著書はいつも即座に読了していたアーレントですら『真理について』だけは読了までに2年半もかかった話は二人の往復書簡から知られる事実である(書簡番号105)。それは、単に彼女が彼女自身の仕事に没頭していたという理由だけでは語れないものがあるだろう。
そのアーレントのサルトル嫌いは有名な話ではあるが、彼女がサルトル以後の構造主義やフーコーやドゥルーズらフランスポスト構造主義を(ほぼ)等閑視していたのは、(憶測ではあるのだが)『真理について』を40年代終わりから50年代初めにかけて読んでいたことによるとみて間違いないのではないか。
第二次大戦後のフランス現代思想がフロイト批判、ハイデガー批判を経てポスト構造主義へと展開していった問題系の多くが、本書においてすでに先取りされていたのだから。フランスの思想家もまた、バタイユやリクールら一部の人を除けば、ハイデガーに比してヤスパースを等閑視していたきらいがあることや、ヤスパースはハイデガーの同時代・同世代におけるもっとも辛辣な批判者であり、1920年代にはもっとも親しく交わった友人であり好敵手であったことにも注意をはらうべきであろう。
それにしてもこの『真理について』はもの凄いとしかいいようがない(チームを組んでこれを翻訳された方々の労もまた途方もないこと)。
『哲学』三部作発表後、十数年におよぶ思索とゲシュタポの監視下という限界状況において執筆された本書は、ヘーゲル論理学の乗り越えとして構想された4部構成の哲学的論理学の第一部でありながら、原書で1200頁、邦訳(全5冊)で2200頁にもなる巨大な書物である(第2部の『範疇論』はほぼ形をなした草稿がドイツで刊行/未翻訳)。そしてメルロ=ポンティやレヴィナスと共有する〈実存〉概念を、暗闇の深みにおいたままにはしておかず、その諸様態と諸位相を、その都度腑分けされた理性によって照明する〈包越者存在論〉という形而上学仮設から展開していくため、字面を追って読了、とはけっしてゆかない(誰であっても読むことを試みればすぐに納得できることだが、実存の深みへといつも反照があるため、悟性によって読み流すということができない)。
スピノザ、カント、キルケゴール、ニーチェ、レッシング、ドストエフスキー、ウィトゲンシュタイン、そして書中にその名は窺えないがハイデガーを綜合する壮大なこの試みは、アーレントをして「西洋哲学の最後の本、そして同時に世界哲学の最初の本」と言わしめただけあって、アガンベン、ナンシー、リンギスらが展開している〈共同体論〉へと届く射程をもっている。
このような書物の読解作業を初めてしまった以上、もう一生付き合わざるをえない。
大変なことである。
本書について語り出すと取り留めがなくなってしまうので、ここでただひとつだけ本書を紐解くことの意義を述べるとするならば、絶対的な内在論に基づいて生きることを目指す〈実存〉が、あるいは〈現存在〉が、その思想と行動ゆえに地盤喪失に陥らないための指標を示してくれることであろうか。
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