ダダカンこと糸井貫二(いといかんじ)先生は1920年12月2日のお生まれなので、今年めでたく卒寿をお迎えになります。
ダダカン先生は日本におけるパフォーマンス・アート、メール・アートの草分け的存在で、故・向井孝氏との交友など戦後日本のアナキズム運動とも大変近い位置におられました。
先生のことはイルコモンズさんの「見よ、ぼくら四人称複数・イルコモンズの旗」(『現代思想』2002年2月号「特集:『帝国』を読む」)で初めて知り、その後、赤瀬川原平『反芸術アンパン』、竹熊健太郎『篦棒な人々』(1998年,太田出版→現在は河出文庫版もある)、椹木野衣『戦争と万博』(2005年,美術出版社)などでますます尊敬の念を深めていきました。因みに椹木野衣『戦争と万博』は第七章をまるまるダダカン論に充てており、それまではマスコミからは思想的変質者として好奇の目で見られたり、美術史ではアウトサイダーとして不当にも評価されてこなかったダダカン先生を、日本の美術史上に初めて正確に位置づけたものとして大変意義深いものです。
そのような折も折、銀座と高円寺の二か所でダダカン先生の米寿をお祝いする回顧展「鬼放展」が開かれるという情報に接し、これは行かないと一生後悔すると思ったのでした。2008年9月のことです。(銀座がメイン会場で、高円寺会場では実際に路上パフォーマンスで使ったコスチュームなどを展示)銀座の会場で、展示物を一点一点へばりつくように眺めていた僕に、主催者の方(鳥水亭木呂さん・日本酒「越後鶴亀」の蔵元)が「今日はどちらから来られましたか?」とお声を掛けてくださいました。そこで「夜行バスに乗って奈良から来ました」と答えたところ、「インタビューさせていただけませんか?」とおっしゃったので快諾し、ダダカン先生への熱い想いを20分ばかり語りました。国家や資本の強大な力に立ち向かう勇気、それもペニス一本ぶらさげて、本当に本当の丸腰で立ち向かう姿の崇高さに魂を打たれたことなどを。
椹木野衣『戦争と万博』第七章「ダダカンと“目玉の男”」に詳述されていますが、ダダカン先生は戦争末期、鹿児島で対戦車自爆攻撃の部隊に所属していました。上陸するアメリカ軍との本土決戦に備え、来る日も来る日も爆弾抱えて戦車に飛び込む訓練をしている最中に終戦を迎えたということです。つまり特攻の生き残りというわけで、ここに戦後のダダカン・パフォーマンスの原点があることはまず間違いないでしょう。そんなダダカン先生のことを思いながら熱く語ったお陰で(?)、主催者の方がインタビューの録音テープをダダカン先生ご本人にお届けくださったのです。
そしてそれから数週間して、ダダカン先生ご本人からお手紙を頂戴するという大変な光栄に浴することができました。
以来、ダダカン先生との文通が続いています。僕らが出している詩誌『紫陽』をお送りすると「感銘を受けました」と大変気に入ってくださり、それに対してダダカン先生は昔の新聞『クロハタ』『虚無思想研究』など、貴重なアナキズム運動にまつわる資料を多数お送り下さいました。同志として接していただけることが大変嬉しくもあり、また恐縮極まることでもあります。恐縮極まるといえば、『紫陽』へのカンパまで頂戴
したこともありました(『紫陽』は黒字財政ですし、僅かばかりの年金から捻出されたカンパゆえ、のし袋に入ったまま大切に保管しております→有意義な使い道を思案中)。
もちろん、ポルノグラフィや広告を使ったコラージュ作品「ペーパーペニス」など、ダダカン先生との文通でしか手にすることのできない伝説的なメールアートも毎回封入されています。
昨年、体調を崩されて緊急入院されるなどご健康面に心配なところもありますが、ますますのエロスとご長寿をお祈りするばかりです。
ペーパーペニス(コラージュ)。これをめくると・・・。
新聞『クロハタ』1956年11月18日号。
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