詩の活動とは、大衆から彼らの力を奪うものではなく、ただひたすら、新たな表現形態を、新たなコミュニケーションを、そして対象に適った新たな言葉を構築するものなんだ。詩の活動は、前衛的アクションのプロトタイプであるし、その要となるものだ。またそれは現実化〔現勢化〕する想像力(イマジネーション)〔構想力〕としての未来を読み取る。知性と感覚との力能、構成する力〔構成する権力〕。じっさい、奇跡が生み出されるのはまさにここでなんだ――奇跡といってもそれは、外部からの介入とか、天使による突飛な出来事の暴発じゃなしに、むしろ、出来事が歴史に結びつくこと、出来事との合致のなかで歴史が構築されること、その帰結として物語のなかで出来事が展開されることなんだよ。この強力で新たな綜合は、芸術や詩の運動に対して、それらが存在のうちに据えつけられているということ――したがって、芸術や詩の運動には存在の超過を決定することができるということ――を示す綜合なんだ。存在のうちに据えつけられているという感情こそが、芸術家の自己実現を可能にする。芸術家はじっさい、言語を構築する、もっとましな言い方をすれば、言語のうちに何らかの言葉を構築する、そして、彼は、このことそれ自体によって、ひとつの論理を再構築し刷新する。芸術家とは、新たな存在や新たな意味を構築する集団的アクションと、存在の構築論理のなかにこうした新たな言葉を定着させる解放的出来事とのあいだの媒介のことなんだ。
◆トニ・ネグリ『芸術とマルチチュード』(廣瀬純、榊原達哉、立木康介訳,2007.5,月曜社)より
数あるネグリさんの本の中ではこの本が一番好きです。ちょうど2年前、訳者の廣瀬さんに通訳していただいてラッつぁん(マウリツィオ・ラッツァラート・・・ネグリさんの同志)とこの本についてお話しをする幸運な機会を得たのですが、その時ラッつぁんは「トニは古典的だよ」「彼は現代アートの世界で今何が起こっているのか、実は余りよく知らないんだよ」などと否定的?な面を強調していました。しかし詩を書き詩誌を出している立場からすると、そういうラッつぁんの貴重な意見が正しいかどうかはあまり意味がない気がしました(たぶんラッつぁんの言っていることは正しいのでしょうが)。
ネグリさんの本はどれもそうなのですが、未来へ投企しつつ何かを実践する活動の中でパフォーマティブに読んでこそ意味があるものなのでしょう。
ネグリさんによる詩人ジャコモ・レオパルディ論『Lenta ginestra しなやかなエニシダ』(1987)の訳がいつ出るのか、まだ当分出ないのか、とても気になります。
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