詩は幼児であれよと私はさけぶ。
幼児は、年長の子に、真剣に立ち向かってゆく。けっしてゆずることのできない自己主張があるとき、幼児は、あいてがどんなに腕力のある、としがひとまわりもちがう年長の子であっても、立ち向かってゆく。年長の子にたいしてばかりではない。大人にたいしてもである。幼児の全身が、ゆずることのできない主張を表現する。表現は、身体をとおしてと、言葉をとおしてと、ふたとおりのルートが別々にあるわけでない。われわれの幼児はいつも全身の表現である。言葉が全身の表現であるのは、われわれの幼児のときをおいて、それ以外にあったであろうか。幼児が全身で立ち向かうあいては、つねに困難であり、かつ不正であるような外界である。
◆藤井貞和『言葉の起源』(1985年,書誌山田)より。
詩人や詩を批評する人間がこの感覚への理解を消失したとき、詩の衰退がはじまる。
文化現象としての現代詩がすでに衰退し、自閉した詩壇なるものにそれが象徴されてしまう現在というのは・・・・・?
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