2010年6月26日土曜日

茨木薫「子ども、または愛のはなし」

赤い蛇はどこに逃げ出したのか
邪な魂はとうとう食われてしまったか
天狗の顔の岩
鬼の住処
いまもひとりで木の上にいる子ども


夕立の前兆
空は曇り空
居眠りを狙う鳥の目
いくつもの小石を並べた猫の墓
添えられた花はすでに枯れている


子どもはどこに消えた?
子どもの名前を呼べ
探し出して、問いただせ
子どもの横には見張りがいる


子どもは木の枝で指を切る
子どもは土を蹴って走る
言葉がなくて、ただ走る


子どもはどこへいった?
魔物が奪った果実
時が満ちるまで、子どもには明日がない


帰り道のない野良猫
犬はびっこをひいている
幸福に似て非なるもの
 愛


子どもはどこへいく?
忍耐や寛容や理解を要するもの
一方的でないもの
滋養になるもの
常に必要欠くべからざるもの
親密さを深め、子どもを成長させ、作物を実らせるもの
神の存在を感じさせるもの
奇跡を起こし、祝福をするもの
贈り物より近しく、水や空気よりも力を要するもの
それは、与えるもの?得るもの?


 愛
時が満ちるまで、負けつづけること


 
 
 
◆『紫陽』12号(2007.5)より
 
この作品については鈴川ゆかりさんの詩評がありますので、そちらもぜひお読みください。
→ http://yukarisz.blog104.fc2.com/blog-entry-427.html


※追記。現在リンクは無効になっています。

2010年6月24日木曜日

トニ・ネグリ『芸術とマルチチュード』より

詩の活動とは、大衆から彼らの力を奪うものではなく、ただひたすら、新たな表現形態を、新たなコミュニケーションを、そして対象に適った新たな言葉を構築するものなんだ。詩の活動は、前衛的アクションのプロトタイプであるし、その要となるものだ。またそれは現実化〔現勢化〕する想像力(イマジネーション)〔構想力〕としての未来を読み取る。知性と感覚との力能、構成する力〔構成する権力〕。じっさい、奇跡が生み出されるのはまさにここでなんだ――奇跡といってもそれは、外部からの介入とか、天使による突飛な出来事の暴発じゃなしに、むしろ、出来事が歴史に結びつくこと、出来事との合致のなかで歴史が構築されること、その帰結として物語のなかで出来事が展開されることなんだよ。この強力で新たな綜合は、芸術や詩の運動に対して、それらが存在のうちに据えつけられているということ――したがって、芸術や詩の運動には存在の超過を決定することができるということ――を示す綜合なんだ。存在のうちに据えつけられているという感情こそが、芸術家の自己実現を可能にする。芸術家はじっさい、言語を構築する、もっとましな言い方をすれば、言語のうちに何らかの言葉を構築する、そして、彼は、このことそれ自体によって、ひとつの論理を再構築し刷新する。芸術家とは、新たな存在や新たな意味を構築する集団的アクションと、存在の構築論理のなかにこうした新たな言葉を定着させる解放的出来事とのあいだの媒介のことなんだ。


トニ・ネグリ『芸術とマルチチュード』(廣瀬純、榊原達哉、立木康介訳,2007.5,月曜社)より


数あるネグリさんの本の中ではこの本が一番好きです。ちょうど2年前、訳者の廣瀬さんに通訳していただいてラッつぁん(マウリツィオ・ラッツァラート・・・ネグリさんの同志)とこの本についてお話しをする幸運な機会を得たのですが、その時ラッつぁんは「トニは古典的だよ」「彼は現代アートの世界で今何が起こっているのか、実は余りよく知らないんだよ」などと否定的?な面を強調していました。しかし詩を書き詩誌を出している立場からすると、そういうラッつぁんの貴重な意見が正しいかどうかはあまり意味がない気がしました(たぶんラッつぁんの言っていることは正しいのでしょうが)。
ネグリさんの本はどれもそうなのですが、未来へ投企しつつ何かを実践する活動の中でパフォーマティブに読んでこそ意味があるものなのでしょう。

ネグリさんによる詩人ジャコモ・レオパルディ論『Lenta ginestra しなやかなエニシダ』(1987)の訳がいつ出るのか、まだ当分出ないのか、とても気になります。

2010年6月18日金曜日

デイヴィッド・ウィナー『オレンジの呪縛 ~オランダ代表はなぜ勝てないか?』(講談社)


サッカー界に革命を起こしたヨハン・クライフが登場した1960年代のアムステルダムでは、同時にプロヴォと呼ばれるアナキズム革命が進行していました。著者は当時の様子をこう記します。
「アムステルダム市内では、文化革命の嵐が吹き荒れていた。西洋の国々では、比較的裕福で独立心の強い戦後ベビーブーム世代の若者が、文化的、道徳的、政治的な変化を求める空気を作り出していたが、アムステルダムの革命ほど遊び心にあふれた、シュルレアリスティックで、アナーキーで、ドラマティックなものはなかった。」と。
本書の冒頭ではクライフのエピソードとプロヴォのエピソードが交互に叙述されるのですが、そのプロヴォのリーダーだったロエル・ファン・デュインが、
われわれは、オランダに革命が起きることよりも、太陽が西から昇ることを願っている・・・・、今すぐに反乱者以上の存在になることはできない。反抗者はケチなブルジョアの花崗岩の壁に自分の頭を強く打ちつけることはできる。われわれにとって意味があるのは挑発行為だけだ。」というようにプロヴォの目的はブルジョア階級を挑発して楽しむことだったようです。
そして道路でユニークなパフォーマンスの集会などを繰り広げるプロヴォを弾圧する警察は、プロヴォにとっても都合がよかったといいます。ばかげたことを弾圧する様子がテレビで報道されることで、かえって警察の立場が弱くなり、ついには警察が時代の風潮に逆らわなくなったのだと。これがオランダの警察がヨーロッパでもっとも寛大になった起源譚として語られるのですが、このあたりは松本哉と素人の乱に通じるところがあって面白いですね。

著者自身はクライフによるトータルフットボールの誕生とプロヴォが直接関係していたという立場はとっていませんが、時代の空気や、文化的な風潮など間接的な関連性は示唆されています。

さて、その他にも本書はスリナム系(黒人)住民と白人との間の人種対立など、歴史、地理、文化、芸術、宗教、心理などあらゆる角度から問題を掘り下げることで、なぜ高度なテクニックと洗練された戦術・システムを兼ね備えた理論上の最強チームであるオランダ代表が、毎度内部崩壊を繰り返してタイトルを逃し続けるのか、という謎を解き明かしていきます。
オレンジフットボールの社会学、とでもいうべき分厚い内容ですが、気軽に読めるノンフィクション仕立てなのが嬉しい。
先日紹介したトニー・フリエロスの『フランク・ライカールト』(東邦出版)と併せてどうぞ。





プロヴォについては、Richard Kempton, "PROVO : Amsterdam's Anarchist Revolt",AUTONOMEDIA,2007 という本があります。




永遠のホモ・ルーデンス


マラドーナはモダンサッカーを支配する戦術至上主義と〈帝国〉的な体質のFIFAに反逆しつつづける永遠のホモ・ルーデンス(遊戯人)だと思いました。
アルゼンチン代表は南アフリカワールドカップでもっともスペクタクルでクリエイティブなサッカーをやっています。

韓国戦のスタンドにはチェ・ゲバラとマラドーナの肖像を染め抜いた大きなフラッグがありました。

マラドーナは右肩にゲバラの、黄金の左足にはカストロの刺青をしています。
司令塔のベロンも右肩にゲバラの刺青をしていましたね。


画像はエミール・クストリッツァ監督『マラドーナ』パンフレットより。

2010年6月16日水曜日

竹村正人「『天秤』と勇気」

先日、「政治と芸術との関係をめぐる、ある重要な議論」という記事を書きましたが、この論争に関連して、竹村正人くんの「『天秤』と勇気」という文章が河津聖恵さんのブログに掲載されました。

 http://reliance.blog.eonet.jp/default/2010/06/post-9a31.html

詩壇の中枢にいる人だけでなく、詩を愛する人すべてに宛てられたテキストです。
詩を読む人、詩を書く人はぜひご一読を。

2010年6月13日日曜日

佐藤駿司「呪詛黰髪血蓮祭文(のろいのくろかみちのはすさいもん)」

1 夜もすがら血の花笑う夢みつつ妹の墓堀り起こしにゆく

2 聖母(はは)殺す夜に魔羅だちこの世にはただ我ひとり花吹雪かな

3 血の画筆(ふで)で首吊る妹描きつつ地獄の夢を夢見みる我は

4 妹の屍鞭打つ夜は明け永遠(とわ)に花弁の散り饐(す)えるかな

5 幾晩も強姦(おか)されつづけし屍妹の黒髪の艶よみがえるとき

6 子のゆえに物狂いすというけれどママは私をどこ捨てに行く

7 光降る月の下にてわが聖母(はは)は髑髏ならべて弾琴しをり

8 産み落とす死児をうずめし塚の上(へ)に名も知らぬ花一痕の月

9 梟首さる乙女舞ひける星月夜漬(さや)けくもあるか亡者這ふ道


◆『紫陽』21号(2010.5)より。佐藤駿司さんは小説の同人誌『半獣神』などで活躍する小説家ですが、ポーやボードレールの訳詩集を私家版で出されたりもしています。ここでは30首からなる連作短歌「呪詛黰髪血蓮祭文(のろいのくろかみちのはすさいもん)」から最初の9首をピックアップしてみました。時に佐藤さんのような異能の表現者と出会えるのも『紫陽』をやっているたのしみの一つです。

それで、ダダカン(糸井貫二)先生から早速この作品を賞賛するメールアートが届きました!






6/15(火)~20(日)「谷内薫展」 於、京都・ギャラリー恵風




◆2010年615日(水)~20日(日) 月曜休廊  12時~19時〔最終日は18時まで〕

◆ギャラリー恵風 http://keifu.blog86.fc2.com/
           g-keifu@hotmail.co.jp
〒606-8392 京都市左京区丸太町通東大路東入ル一筋目角

★谷内薫さんについての過去の批評記事はこちら↓
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/04/2010.html
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/05/blog-post.html

2010年6月12日土曜日

ライカールトのジャケット"I have a dream"(マーティン・ルーサー・キング)


80年代から90年代にかけてアヤックス・ACミラン・オランダ代表などで活躍したフランク・ライカールトは、僕をもっとも魅了したサッカー選手の一人ですが、トニー・フリエロスによるこの本はそんな彼の魅力に肉迫した一冊です。ライカールトはサッカー界におけるアーティストそのもの。





FCバルセロナで監督をしていた頃(2003年~2008年)、彼はメッセージが刺繍されたジャケットを着るのを習慣にしていました。





ワールドカップ開幕

ついにサッカー・南アフリカワールドカップが開幕しました。
貧困、飢餓、エイズ、犯罪といった言葉で、それらがまるで自然現象であるかのように皮相に語られる陰で、階級格差の放置、多国籍企業やワールドカップ関連事業による黒人労働者の搾取、ナイキやアディダスによる貧しい国の労働者の搾取、FIFAのスポンサーを肥やすための露天商の強制排除、FIFAによる偽善的キャンペーンなど、無数の問題があります。しかし、それでもアフリカでワールドカップが開催されることの肯定的意味は計り知れないものがあると思います。

アフリカの人々がよろこびと希望に満ちた時間をすごせることを祈りつつ、僕も素晴らしいプレーに期待することにしましょう。

2010年6月11日金曜日

『現代詩手帖』1977年2月号「増頁特集:黒田喜夫 ~飢餓と情念のゆくえ」

(画像をクリックすると拡大します)



















名詩「毒虫飼育」(クリックして拡大した画像をさらにクリックすると全文が読めます)










2010年6月10日木曜日

政治と芸術との関係をめぐる、ある重要な議論

『紫陽』21号掲載の竹村正人くんの詩「詩人は ―渡辺玄英氏に」を、河津聖恵さんがご自身のブログ「詩空間」で紹介しています
『現代詩手帖』2010年1月号で、渡辺玄英さんは自身が担当する詩集評において河津聖恵さんと野樹かずみさんによるシモーヌ・ヴェイユへのオマージュ『天秤 ―わたしたちの空』を批判的に取り上げたのですが、竹村くんの詩はその詩集評に窺える看過し得ない問題に対する意思表明として書かれたものであり、河津さんのブログ記事は玄英さんに対する当事者としての直接的な反論です。

とはいっても、実は玄英さん個人の問題というよりは、玄英さんを包んでいる現在の批評空間に蔓延するシニシズムという病についての話だと思っていただければいいでしょう。
(渡辺玄英さんは現代詩界においては良質な批評家であり、つるし上げることを目的になされた議論ではないことを、誤解のないよう注記しておきます)
言論活動においては無菌室のような安全な場所などありえないわけですから、当然、かくいう僕自身もそのような陥穽とは無縁でありえず、それゆえ常に自らの立ち位置への反省が要請され続けるわけです(『紫陽』というインディペンデントな詩誌を7年も続けているのはそのような要請への実践的な応答だと思ってください)。しかし、僕もまた居直りのシニシズムに対しては激烈な論調で糾弾する立場をとりますし、何かを主張するということは常に既に戦略的なものを含み込む以上それが矛盾であるとは思っていません。

さて、そのシニシズムの特徴は、誰もが加害者にもなり被害者にもなりうる構造を絶対的に「相対化」し、その構造ゆえに巧妙に覆い隠された断絶線を、あぶり出し告発する者たちに対して(時に露骨な)不快感を示すというもの。ですが、それは何も詩に限ったことではなく、権威化したメディアにおいては広くみられる現象です。

しかしそれがあまりにも普通な顔をしているせいで、この病に冒されていることに多くの人が気づかず、また気づいても容易には向き合えません。それは詩の世界であれば“現代詩”と呼ばれるものの成立を可能にしている条件そのものにかかわる問題だからなのでしょう。

70年代のある時期、大阪梅田の紀伊國屋に納品された詩誌『白鯨』100冊が完売したというエピソードがあるのですが、詩が売れた時代というのは確かにありました。思潮社の『現代詩手帖』であれば1977年の黒田喜夫特集や1978年の石原吉郎追悼特集など素晴らしい特集が組まれ、現在の『現代詩手帖』と同じ雑誌であることが信じられないくらいの輝きを、今なお放っています。
2010年代に入った今となってはおとぎ話のようなエピソードですが、当時は詩がある社会的なリアリティをもっていた、つまり現実社会との間にホットな回路をもっていたということがそれを可能にしていたのだと思います。

近年、河津聖恵さんがなされている活動は、1991年の藤井貞和と瀬尾育生(及びその背後にある詩壇の顕然/隠然たる力)による湾岸戦争詩論争以後、無惨なまでに断ち切られてしまった回路をふたたび結びなおす取り組みであるともいえるでしょう。

ともあれ、河津さんのブログでは政治と芸術の関係をめぐって、玄英さんや竹村くん(駄々村くん)も交えた非常に有意義な議論が展開されていますので、一読されることをお薦めします。


◆河津聖恵ブログ「詩空間」2010年6月8日
http://reliance.blog.eonet.jp/default/2010/06/post-3d86.html



▼政治と芸術との関係について書いた過去の記事(参考までに)
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/03/blog-post_07.html
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/04/37.html
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/05/blog-post_06.html

2010年6月7日月曜日

第17回日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル;ニパフ10のお知らせ

以前、このブログでも紹介した霜田誠二さんが主催するイベントのお知らせです。

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The 17th Nippon International Performance Art Festival (NIPAF '10)

NIPAF Tokyo -NIPAF Osaka -NIPAF Nagano
第17回日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル;ニパフ10
ニパフ東京ーニパフ大阪ーニパフ長野

ハンマーで打たなくとも、小石は水の踊りが歌う中で完成していく。/タゴー ル詩集「迷い鳥」より

NOT hammer strokes, but dance of the water sings the pebbles into perfection. / Tagore:Stray Birds

◆日 程
◯東 京:6月7日(月), 8日(火), 9日(水) 開演午後7時(開場午後6時半)
 「プロト・シアター」
 (新宿区高田馬場3-38-3. JR高田馬場駅小滝橋方面13分小滝橋交差点手前、 03-3368-0490)
◯大 阪:6月11日(金), 12日(土), 13日(日) 開演午後7時(開場午後6時半) 13日のみ開演午後4時。
 「西成プラザ」
 (大阪市西成区太子1-4-3 太子中央ビル3F、JR新今宮駅東口・地下鉄動物園 前駅7番出口1分、百円ショップ3階)
◯ニパフ信州スプリング・セミナー;6月14日(月)午後5時~17日(木)昼まで
  詳細下記
◯長 野:6月17日(木), 18日(金) 開演午後7時(開場午後6時半)
 「ネオン・ホール」
 (長野市権堂2344、JR長野駅下車大門南交差点東、O26-237-2719)

*出演者は毎日異なります。各10~20分の作品。計2時間程度。途中入退場可。6/13(日)は午後4時開演ですのでご注意下さい。開場は開演30分前です。

[付帯イベント]
◆アーティスト・トーク:海外アーティストが各国の状況を語る。随時通訳付き。
[東京]6月6日(日)午前11時~午後3時、明大前「キッド・アイラック・アー ト・ホール」(京王井の頭線「明大前」駅徒歩1分、03-3322-5564)
 会費:学生1200円、一般1,500円。

[大阪]6月10日(木)午後7時~9時、「西成プラザ」本公演と同じ会場です。
 会費:学生800円、一般1,000円。

◆屋外パフォーマンス(整理券2000円)
[長野]6月16日(水)午前11時~午後2時頃、飯綱高原大座法師池湖畔(雨天決行)

◆出演アーティスト
[海外]
1モニカ・ギュンター&ルイディ・シル(スイス、チューリッヒ、女&男、全カ所)
2ミラン・アダムチェック(スロバキア、ポドホリエ、男、全カ所)
3ネメーレ・ケレッシ(ルーマニア、トランシルバニア、男、全カ所)
4ムーヒェ(韓国、ソウル、女、全カ所)
5アブ・ナセール・ロビ(バングラデシュ、チタゴン、男、全カ所)
6ブ・ドゥック・トアン(ベトナム、ハノイ、男、全カ所)
7インデル・サリム(インド、デリー、男、全カ所)
8カロリーナ・カヌル・コエリョ(メキシコ、メリダ、女、全カ所)
9ラッケル・アロウホ(メキシコ、メリダ、女、東京のみ)
10サンウー(ミャンマー、ヤンゴン、男、全カ所)

[日本](出演地)
1霜田誠二(全カ所)、2黒田オサム(全カ所)、3大池公二(全カ所)、4 大橋範子(全カ所)、5広瀬真咲(全カ所)、6永井可那子(全カ所)、7尾花藍子(東京)、8イシワタマリ(全カ所)、9正田ユミ子(東京、大阪)、10倉田めば(東京、大阪)、11寺尾晴美(東京、長野)、12御須玲央奈(東京、長野)、13犬飼美也妃(大阪、長野)、14鈴木文平(大阪、長野)、15北澤一伯(東京)、16関谷泉(東京)、17門倉緑(東京)、18machi/(大阪)、 19竹中康宏(大阪)、20新井祥也(東京、大阪)、21手塚雄大(全カ所)、22田中良典(東京)、23杉政なつみ(東京)、24新保奈未(東京)、25キット ・ガーチャウ(大阪)

◆入場料;学生前売2,200円(当日+300円)、一般前売2,500円(当日+300円)、高 校生1,500円(当日のみ)
 [東京、大阪]学生3日券6,000円 一般3日券7,000円
 [長野]学生2日券4200円 一般2日券4800円
◆主 催;日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル(ニパフ)実行 委員会(代表:霜田誠二)
◆共 催;東京NIPAF、大阪NIPAF、長野NIPAF
◆協 力;プラットフォーム・アジア・パフォーマンス・アート日本委員会
(PAPA-JAPAN)、プロト・シアター、大阪市立大学都市研究プラザ、ネオンホ ール
◆助 成;日本芸術文化振興会、花王芸術科学財団、長野市芸術文化振興基 金、スイス・ルーツェルン州・市、
◆問合せ・予約;東京、長野:090-1652-9127 大阪:または E-mail: nipaf@avis.ne.jp 
◆ウエブサイト:http://nipaf.2bx.bz/

[ニパフ現代パフォーマンス・アート信州サマーセミナー10受講生募集]
◆日 時;6月14日(月)午後5時JR信越線長野駅集合後会場移動、6月17日(木 )昼まで。3泊4日。部分受講可。
◆会 場;長野市飯綱高原「カシヨ飯綱山荘」TEL 026-239-2956   
◆講 師;上記海外芸術家、国内芸術家有志(英語を中心として通訳も付きます)
◆内 容;アーティスト・トーク、フリー・パフォーマンス。
◆受講料;学生5,000円、一般6,000円。他に食費・宿泊費一泊2,000円×3日=6,000円
◆問合せ、受講申込;TEL 090-1652-9127、 E-mail: nipaf@avis.ne.jp
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Seiji Shimoda/Nippon International Performance Art Festival (NIPAF)
Executive Committee






(画像をクリックすると拡大)

2010年6月5日土曜日

『紫陽』21号出来!




『紫陽』21号はいつもより10日以上遅れましたが、昨日ようやくすべての発送を終えました。
今号は小説、パフォーマンス・アート、ぽこぽこ音楽、アクティヴィズムなど、普段詩とは別の、あるいは詩と隣接する分野で活躍する人々の作品が多数集まったことで、これまでになく多彩な構成になりました。現代詩専門の読者にはあまり馴染みがなくても、見る人が見れば「おお!」と思わず感嘆しそうな人の名前も少なくありません。
詩誌におけるカオスモーズとはこんなのをいうんでしょう!(これは自画自賛ではない。賞賛されるべきは当然、寄稿者の皆さんです)
今年も両国の江戸東京博物館にて開催される詩誌・詩集の展示即売会「東京ポエケット」に出展します(7/11の日曜日)。


【寄稿者】鈴川ゆかり、芦田みのり、三刀月ユキ、野村尚志、りー、南舞、北山兵吉、松本タタ、O柳、小池栄子、倉田めば、武中光男、佐藤駿司、西きくこ、石瀬琳々、畑中暁来雄、鬼原悠翠、風梨子、亰彌齋、藤井わらび、亜子米、イワモトアヤ、あおい満月、竹村正人、machi/、うなてたけし、サマンサ・グレイ、後藤あゆみ、寮美千子、志郎、ダダカン (以上、掲載順)

【表紙絵】奥津ゆかり


頒価¥200  A5判72頁  2010年5月発行

興味のある方はfrieden22◎hotmail.com(◎を@に変換)までお問い合わせください。
   




2010年6月4日金曜日

藤井貞和『言葉の起源』より

 詩は幼児であれよと私はさけぶ。
 幼児は、年長の子に、真剣に立ち向かってゆく。けっしてゆずることのできない自己主張があるとき、幼児は、あいてがどんなに腕力のある、としがひとまわりもちがう年長の子であっても、立ち向かってゆく。年長の子にたいしてばかりではない。大人にたいしてもである。幼児の全身が、ゆずることのできない主張を表現する。表現は、身体をとおしてと、言葉をとおしてと、ふたとおりのルートが別々にあるわけでない。われわれの幼児はいつも全身の表現である。言葉が全身の表現であるのは、われわれの幼児のときをおいて、それ以外にあったであろうか。幼児が全身で立ち向かうあいては、つねに困難であり、かつ不正であるような外界である。


藤井貞和『言葉の起源』(1985年,書誌山田)より。

詩人や詩を批評する人間がこの感覚への理解を消失したとき、詩の衰退がはじまる。
文化現象としての現代詩がすでに衰退し、自閉した詩壇なるものにそれが象徴されてしまう現在というのは・・・・・?