2010年5月29日土曜日

「紙魚日記」

紙魚(しみ)を飼育している人のサイトをみつけました。
面白い趣味をしている人もいるもんだ・・・。

本棚の奥や床に積み上げた本の山の下の方から本を取り出すと茶色い粉のようなものが付着していることがあり、それを見つけるたびに「なんだこりゃ?」と首を傾げていたのですが、それは紙魚の糞だったことがわかりました。

うちでは最近、講談社の『類語大辞典』を函から取り出すと大抵、紙魚が飛び出してきます(多いときは一度に3匹くらい)。この辞書はとてもいい紙を使っていて、これまたいい匂いがするので、匂いに惹かれてやってくるのかなぁ、とか、暗さと適度な隙間が紙魚の好みにあっているのかなぁ、とかやっぱり首を傾げながら憶測しております。


「紙魚日記」
http://pppea.s16.xrea.com/shimi/
http://pppea.s16.xrea.com/shimi/shimi.htm


明日は『紫陽』21号の製本作業をやります。

2010年5月28日金曜日

紙魚(しみ)のこと

最近、どうもうちの中で紙魚の活動が活発化しています。
床に積み上げている本と壁の間の埃の中やら、函つき本の函の中に生息していて、本を手に取ったり函から出したりすると時折ちょろちょろ出てくるのは毎度のことなのですが、最近は堂々と這い回っているのでさすがに困惑気味。

掃除をしっかりすれば済む話なのか・・・。


ウィキペディア「シミ目」

2010年5月25日火曜日

J・L・ボルヘス「月」

月、或いは《月》ということばは
一個の文字なのだ。多にして一なる
わたしたちという、この不可思議なものの
複雑な書記のために造られた文字なのだ。

宿命もしくは偶然が人間に与えた
象徴の一つなのだ。いつの日か、
至福に心おどるとき、或いは苦しみもだえるとき、
彼の真実の名前を書き留めうるように。


J・L・ボルヘス「月」(『創造者』所収・鼓直訳・2009・岩波文庫)より

2010年5月24日月曜日

藤沢房俊『「クオーレ」の時代 ~近代イタリアの子供と国家』(筑摩書房)

『サッカーとイタリア人』の話を書いたので、それに関連する本のことを少し。

本書『「クオーレ」の』時代は1993年に出版されたものですが、『サッカーとイタリア人』を読んだり、ネグリらイタリア現代思想の著作などを読んでいて感じる特殊イタリア的な精神(としかいいようのないもの)について考える上で、基本的な理解の前提を与えてくれるとてもいい概説書です。
『クオーレ』とは1886年にデ・アミーチスの著した児童文学のベストセラーで、『母をたずねて三千里』などその中のエピソードは日本でもこれまで何度かアニメの題材にされてきました。

長らく統一国家が存在せず、遅れて近代化の流れに乗った19世紀のイタリアは、国民国家形成のための新しい価値観の創出ということが至上命題としてありました。それは国を統合する愛国心、自己犠牲の精神、勇気、思いやりといったものでしたが、そのような価値感を称揚する上で、個の尊厳というものが当然のように犠牲にされてきたのでした。
本書はそのようなイタリア近代史の流れを、国家にとって従順な身体を育成する軍隊の予備校としての小学校、そこでの教科書、イタリア語の形成、「健全な精神は健全な身体に宿る」という体育思想、捨て子の問題、人身売買、煙突掃除や鉱山での児童労働、など子供にまつわる様々な問題を軸に叙述していきます。
想像すればするほどその悲惨さにうちひしがれそうになりますが、それだけにこういった歴史的な事実を知っておかねばならないとの思いを新たにします。

それにしても、90年代前半に出版された西洋史分野の概説書には良質なものが多いなあ、と慨嘆せずにはいられません。


◆藤沢房俊『「クオーレ」の時代 ~近代イタリアの子供と国家』(1993年,筑摩書房)。初版はちくまライブラリー版1998年にはちくま学芸文庫に入っています。今はどちらの版も新本では入手できませんが、今のところ古書在庫は十分にあるようなので興味のある人はお早めに。

エドモンド・デ・アミーチス『クオーレ』(和田忠彦訳,2007年,平凡社ライブラリー)

2010年5月23日日曜日

ネット詩誌『四囲』創刊

詩集『さよならニッポン』(2009,思潮社)が話題を呼んでいる詩人仲間の高塚謙太郎さんから、ネット詩誌『四囲(しい)』創刊のお知らせが届きました。
同人はそれぞれに詩的言語を究める阿部嘉昭・近藤弘文・高塚謙太郎・廿楽順治という実にシブい顔ぶれ。同人諸氏の充実ぶりが窺える、大変読み応えのある詩誌です。

個人的には阿部嘉昭「二角獣のうらさみしい春」、高塚謙太郎「赤目」に強く惹かれました。


◆詩誌『四囲』(PDF版)2010.5.15発行 
こちらから読めます→ http://tsuzura.com/konoyo/data/she1.pdf 


◆改行屋・廿楽商店(代表者・廿楽順治氏のサイト)
http://tsuzura.com/konoyo/

深夜の奈良で

昨夜はパブ・ウェンブリー・クラウンでサッカーUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦「インテル対バイエルン」を観るため、終電前に家を出て、奈良市街へ。
キックオフまでの時間はおでん屋・竹の館で潰すべく、やすらぎの道を南に歩いているとおでん屋近くのsample white roomでDJイベントに集まった若者がたむろしていたので寄っていくと奈良オルタ界のキーマンAくん(DJイベントの主催者)の姿が。そのままsample前で立ち話。先日、中田英寿が客としてsampleにやってきたとか、東大寺の二月堂で中田と出くわしたとか・・・。
その後おでん屋でまったりと過ごしていると、DJイベントに参加していた若者たちが大挙して店内に。皆、若い若い、チンピラみたいなのは見当たらず、いかにも健全な青年男女の群れでした。
ウェンブリー・クラウンでは20数人ほどの客たちとともに100インチの大画面で試合を観たのですが、ここも20代前半くらいの若者ばかりでした。みんなサッカー好きで、素晴らしいプレーがあると拍手やらどよめきやらがほとんど同じタイミングで湧き起こり、ときには「インテルはイタリア人がおらへんなあ」とか「みんな坊主頭やなあ」といった面白いつぶやきが聞こえてきたり・・・。
途中からsampleのAくんとイベントのDJくんも仲間に加わり、僕はマンチェスターの労働者が飲むというボディントンズというエールを飲みながら観戦しました。
部屋で一人で観るのとは違って、いろんなものが共有できるのは素晴らしいことです。
結果は2-0でインテルの勝ち。とてもハイレベルなゲームでした。

なんでも45年ぶりのヨーロッパチャンピオンなんだそうで。

帰宅後は余韻に浸りつつ、以前このブログでも紹介した小川光生『サッカーとイタリア人』(光文社新書)を読み返しながらインテル(インテルナツィオナーレ・ミラノ)の歴史をおさらい。
インテルの選手は南米とアフリカの選手が中心で、スタメンにイタリア人がいないばかりでなく、ヨーロッパ人すら少ないという異例のチームなのですが、1908年に国粋主義による外国人選手排斥の風潮に反対してACミランから分離する形で設立されたという歴史をたどってみると、その理由、このチームの理念などが少しわかるような気がしました。インターナショナリズム、という言葉を連想したりもして・・・。


ともあれ、深夜の奈良の若者文化、なかなか味わい深いものがあります。



パブを出たらもう朝。雨の中、餅飯殿(もちいどの)商店街を東に入った路地を鹿が歩いていました。猿沢池の方に向かっています。

2010年5月22日土曜日

自衛隊の戦闘機がうるさい(`曲´ )

うちの近くの佐紀楯列古墳群の中(ウワナベ古墳とコナベ古墳の間)には航空自衛隊奈良基地があるのですが、2003年に有事法制が強行採決されてからというもの軍用ヘリの騒音がひどいのです・・・。
たまに、戦闘機が曲芸飛行やったりしてるのですが、今日はなにか基地でイベントでもあるのか、今、超低空・曲芸飛行の爆音が響いてます。
危なっかしいったらありゃしない。

ほんとこいつら、住民をバカにしてます。

ダダカン先生、お元気です!

『篦棒な人々』(河出文庫)の著者・竹熊健太郎さんがGWにアート界の仙人・ダダカン先生を訪問した話がブログでレポートされています! 
昨年五月に雨漏りを直そうとして脚立から足を踏み外して頭を割ったり、七月に路上で行き倒れて緊急入院したというお手紙を貰って心配していたのですが、病院食で精がついて却って元気になったとかいう話もでています。なにより、ダダカン先生のパフォーマンス動画が見れるのが大変貴重です。今年90歳になるとは思えぬほどの若々しい肉体をされています。

先日、大阪万博太陽の塔突進40周年にあたってお祝いのお手紙を差し上げたのですが、独自の健康法で老化防止を心がけている、奈良で若い力を結集した面白い動きがでることを楽しみにしている、という主旨のお返事を頂戴したところでした。
先生のご期待に応えるべく、奮起したいと思います。

いつも刺激的なメールアートと一緒にあたたかいお手紙をくださるダダカン先生、ほんとうに天使のようなお人柄なのです。

何はともあれ、お元気でよかった(^o^)。


「たけくまメモ」
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-c465.html#more

2010年5月21日金曜日

P.B.シェリー『クィーン・マッブ』(1813年)

昨年あたりからイギリス・ロマン派文学を、現代思想の様々な問題系を手がかりにしてラディカルに読み直してみようという気になっています。
最近の問題意識としてはシェリー、バイロンからワイルド、モリス、ショーにいたる系譜、それからシェリーの師であるゴドウィンに始まる西欧アナキズムとの関連を軸に、ユートピア/反ユートピア思想、シュルレアリスムまでを射程に入れ、折に触れてはそこはかとなく思いをめぐらすといった感じで、研究というほど大それたものではありません。
とりわけ、水難事故で早世したパーシー・ビッシュ・シェリーについては、ロマン派のなかでも別格だと思っているのですが、19世紀後半~20世紀の文学研究の歴史のなかでは彼があまりにもラディカルだったため多くの人がシェリーの文学を攻撃しています。なかでもT.S.エリオットによる感情的ともいえる批判は有名(『文芸批評論』・岩波文庫、エリオットには自らの実存をかけてでも否定したい、琴線に触れる何かがあったのでしょう)。
日本の英文学アカデミズムにおいても、シェリーをあまったるい理想主義の枠内に留めるような傾向が強く、シェリー研究者であっても本当は激しく魂を揺さぶられているであろうに、どうもその革命的な思想のポテンシャルを低く評価しようとする人がいます。自己規制をかけているとしか思えないような・・・。

アナキズム、無神論、ビーガン、ポリアモリー、などシェリーのラディカリズムには現代に繋がる様々な問題系の萌芽が窺えるのですが、シェリーの詩を「大気的」と評して絶賛したガストン・バシュラール(『空と夢』・邦訳は法政大学出版局)を手始めに、ベルクソン、ドゥルーズ=ガタリらの哲学を踏まえて読んでみると、その革命的な思想のアクチュアリティに驚くことでしょう。シャルル・フーリエもそうなのですがシェリーがあまりにもぶっとんでいたために、これまではその価値を掬いとるのに必要なコードを持ち合わせている人が極めて少なかったのではないかと思います。
そのシェリーの最高傑作は三十数種類もの詩形を駆使した劇詩『鎖を解かれたプロメテウス』(1820年・邦訳は岩波文庫)だと思っているのですが、1813年、二十歳のシェリーが書いた長編詩『クィーン・マッブ』も、その後の革命思想に与えた影響の大きさからして非常に興味深いものがあります。

訳書(高橋規矩訳,1972年,文化評論出版)より、少し引用してみましょう。


「あらゆるものが売買される。『天』の
光明さえ金次第。寛大な自然の愛の賜物(たまもの)、
大海の深淵に潜む極めて卑しむべき
微生物、われらが人生の目的全て、
人生そのものまでも、法律の認める
微々たる自由さえ、人間の友情、はたまた、
人間愛の衝動によって本能的に果たさるべき
義務でさえ、破廉恥なる利己心の建てし
公共市場におけるが如く、商いされる、―
かかる市場では利己心が、かような
各々の品々に己れの支配の印たる値を
付すのだ。愛までも売買される。一切の
悲哀の慰みまで耐え難き極みの苦悶の因に
変じ、老人は利己的な美女の厭うべき腕に
抱かれて震え、青年も腐敗せし衝動に
駆られて、商いという害毒が破滅に導く
恐怖に充ちたる人生を歩むべく
用意される。歓びなき肉欲が齎らせし
病毒は退治し難き九頭蛇の与える
劇痛で全ての人生をば苦しめるのだ。

(第五歌,訳書100頁)


『クィーン・マッブ』は、いわゆる作品としての「未熟さ」や社会的危険性を理由に出版当初から様々な非難が加えられてきたのですが、以上引用したくだりには、出現したばかりの資本主義に対する激烈な批判精神が反映されていることがわかります。文学的な評価とは別に、これがロバート・オーウェン主義者や後のマルクス主義者たちに大きな感銘を与えることになるわけです。
ですが、エリオットらが酷評する「未熟」といった文学的評価についても、再考の余地がいくらでもあると僕は思っています。

クィーン・マッブとはケルトの神話に出てくる妖精の女王メーブのこと。そのメーブが超越的な形而上学に基づく支配秩序に対し、愛に基づく内在論で対抗する物語になっているという点で、後の『鎖を解かれたプロメテウス』に繋がるものがすでに胚胎しています。このあたりが再評価の軸になりそうな気がしています。

シェリーについてはこれからも気が向いたら書いていくことにしましょう。



(画像をクリックすると拡大して読めます)


しかし、古書価のこの高騰ぶりはなんなんだ? 去年は1500円で買えたのに・・・。

2010年5月17日月曜日

『紫陽』21号、少し遅れますm(_ _)m

現在編集中の詩誌『紫陽』21号についてのお知らせです。
非常に多くの個性的作品が集まり作業が大変難航したことと、編集人たる私がブログなんぞを始めてしまったことが原因で、発行が遅れています。本来なら今頃印刷所に入っているか製本・発送作業に入っている時期なのですが、本日午前3:40現在、まだ編集後記を書いている最中なので版下が完成しておらず、印刷にまわるのは今週半ばくらいになりそうです。
製本作業は諸般の都合により5/30(日)になりますので、寄稿者・読者・販売協力店さまにお届けできるのは6月上旬になります。
申し訳ありませんが今しばらくお待ちくださいませ。

2010年5月16日日曜日

擬態美術協会さん

昨日、大阪・生玉町のSoHo art galleryで開催されている擬態美術協会さんの個展に行ってきました。大橋範子さんのパフォーマンスも凄かったです。
さて、この擬態美術協会さん、飄々とした方なのですがさらりと「アンチ・レディメイド」と言っていたのがとても印象的で、ひょっとすると実はまだ誰も批評的な言説に載せたことがないような、凄いことをやっているのではないか、と思いました。もちろん簡単に言語化などできるものではないのですが、現代美術の原器といわれるマルセル・デュシャン以後定着したある種の膠着の向こう側、意味と非意味の言表を可能とする場の彼岸を志向しているような・・・。


展示作品をみていてデリダの「差延」という概念を思い出しました。

2010年5月13日木曜日

ワールドカップとナイキやアディダスの話など

サッカー、南アフリカ・ワールドカップが近づいてきましたね。
日本代表の岡田監督は頭が堅くてモダンサッカーの戦術を理解していない人なので、選ばれたメンバーは首を傾げたくなる人が多数入っていましたが、三戦全敗と予想する人が多数いるということは、それだけ目の肥えたサッカーファンが多数いるということですから、そこがせめてもの幸いかと思います。
しかし、これからワールドカップが始まるということは、あらゆるメディアでナショナリズムが発揚されるということでもあるわけですから、これは鬱陶しいかぎりです。鬱陶しいといえば、ナイキのロゴマークがこれまたあらゆる場所で目に飛び込んでくることでしょうか。
そのナイキと契約するナショナルチームが増えてきたのは98年のワールドカップ予選の頃からですが(オランダ、ブラジル、韓国など。当時はイタリアまでがナイキ)、その頃からユニフォームはナイキとアディダスがやたら目立つようになりました。個性的なメーカーのものが姿を消し、色が違うだけでほとんど同じデザインのチームが多数を占めると、ユニフォームのデザインをみる楽しみがなくなるだけではなく、なんだかファッショ的な雰囲気さえ感じてしまいます。94年のイタリア代表が契約していたディアドラのユニフォームが非常に洗練されたデザインだったので、当時ポロシャツのような感覚でオシャレ着としていた人がたくさんいたことが懐かしくさえ思われます。現在はナイキ、アディダス、プーマ、アンブロの4社でほぼ寡占ですが、アンブロはナイキに買収されたので事実上、3社による寡占ですね。因みにアディダスとプーマはもともとダスラー兄弟商会という一つの会社だったのが、経営者のアドルフ・ダスラー、ルドルフ・ダスラーという兄弟が喧嘩して二つに分裂したもの(アドルフがアディダス、ルドルフがプーマ)。それ以後、アディダス、プーマの敵対関係がずっと続いているというわけです。アディダスがFIFAと癒着関係にあり、ナイキと同様、強豪国との契約やスター性の極めて高い選手との個人契約が多いのに対して、プーマはアフリカ諸国やマラドーナをはじめマスコミから「問題児」と称される反骨的な個人との契約が多いところが目立った特徴でしょうか。因みに今年1月にシネ・ヌーヴォで観たエミール・クストリッツァ監督による極めて政治的な反骨ドキュメンタリー映画『マラドーナ』のスポンサーがプーマでした。また、2002年ワールドカップの際、プーマがカメルーン代表のユニフォームにノースリーブのデザインを採用したら、言いがかりをつけてFIFAが禁止したという出来事がありましたが、これがアディダスの嫌がらせだったことは誰もが容易に察知できました。
とはいえ、どのメーカーも搾取工場で製品を作っているというところでは大差ないといえそうですが。

ナイキ、アディダスがスポーツ界を席巻し始めるのと、グローバリゼーション、つまりネグリとハートが〈帝国〉と呼ぶ世界秩序が立ち上がる時期とが重なっているのは決して偶然ではないということをひとまずは確認しておきましょう。

さて、そのナイキ、勝手に渋谷区と結託して宮下公園をナイキ公園にするというネーミングライツ契約を結んでしまいました。誰もが分け隔てなく使えるはずの公園を有料化してテント生活者を排除するというとんでもないことが進行していますので、知らない人はぜひ以下のサイトをご覧ください。

「みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会」
http://minnanokouenn.blogspot.com/





ところで、サッカーについては近頃面白い本が多数出ていますが、買って読んだもので面白かったのをふたつ。

同じ町のクラブチーム同士の対決をダービーといいますが、ブルジョア階級と労働者階級、右翼と左翼、カトリックとプロテスタント(イタリアではこれはありませんが)、など様々な世俗的対立がチーム間の対立と重なっていたりするように、サッカーを通じて社会の色々な様相が読み取れるわけですが、本書はイタリア・サッカーと郷土愛の関係を人情味溢れるエピソードを盛り込みながら綴った読み物です。マラドーナの大活躍でユベントスやミラン、インテルなどイタリア北部の金持ちクラブを破ってナポリに優勝をもたらしたことが北部に搾取され続けてきた南部にとっては解放者・革命家のイメージと重ね合わされた話や、ヴェローナ市内の人口2000人の一地区の弱小クラブで年間予算が僅か5億円しかないキエーボがセリエA(1部リーグ)に昇格・定着した話など、目頭が熱くなりました。

勝利至上主義、ナショナリズム、人種的本質主義など、現在のサッカージャーナリズムを支配しているさまざまなイデオロギーを超克する新たな批評原理の実践書。ドゥルーズ=ガタリ、ネグリ=ハート、アガンベンなどの現代思想と容易に接続できます。今福さんのこだわりや、くせの強い趣味嗜好もよく窺えるところがまた面白い。

2010年5月12日水曜日

今日、5/12はヨーゼフ・ボイスの誕生日(1921年)。


5/12はフルクサス運動などを展開し、芸術=革命という思想を実践したヨーゼフ・ボイスの誕生日です(1921-1986)。昨年、水戸芸術館で「Beuys in Japan:ボイスがいた8日間」という展覧会が開催されるなど、アクチュアルな問題意識からの再評価の機運が高まっています。展覧会に合わせて『ヨーゼフ・ボイス、よみがえる革命』という本もでました。これが、単なる一時的な熱に終わらなければいいのですが・・・。


また5/12はアイルランド革命の闘士にして、IWW(世界産業労働者連盟:1905年にアメリカで結成)のオルガナイザーでもあったジェイムズ・コノリーがイースター蜂起の首謀者として処刑された日でもあります(1916年)。

2010年5月8日土曜日

芳川泰久・堀千晶『ドゥルーズ キーワード89』

ドゥルーズ、あるいはドゥルーズ=ガタリが創出した概念を、日常生活や創造的生活のあらゆる場で思考の道具として使いこなすための実践的キーワード集。もちろんこれを手元に置いて適宜参照できるようにしておけば、ドゥルーズのみならず、さまざまな現代思想書を読解するための手引き書にもなります。
ですが、小難しくて長ったらしいドゥルーズを読解することなど日々の労働に追われてできるわけがない、っていう人々にこそお薦めしたい本です。ドゥルーズの著書を直接読まなくてもその概念を使えるように配慮された本なので、それらを創造的に曲解することで何かの役に立てることができるはず。
数学論文なんて読んだことなくても数学教師が務まることを思えば、何てことはない。









芳川泰久・堀千晶『ドゥルーズ キーワード89』(2008.7,せりか書房,¥2100)

『VOL』4号!

友人知人が少なからず関わっている思想誌『VOL』の第4号が出ました!二年ぶりです。
VOL編集委員編。責任編集=田崎英明・白石嘉治・木下ちがや・平田周。



《内容》
特集:都市への権利/モビライゼーション

★巻頭討議
「新しいアナキズムのために――『新しいアナキズムの系譜学』『資本主義後の世界のために』をめぐって」高祖岩三郎+栗原康+酒井隆史+桜田和也+白石嘉治+田崎英明+仲田教人+平沢剛+松本麻里+矢部史郎

★特集「都市への権利/モビライゼーション」
「インタビュー 新たな都市の時空へ」田崎英明(聞き手・平田周)
「都市への権利」デヴィッド・ハーヴェイ(平田周訳)
「場所闘争のためのノート――ローカルの都市、都市におけるローカリティ」宇城輝人
「インタビュー 『国道20号線』から『サウダーヂ』へ」富田克也+相沢虎之助(聞き手・五所純子、前瀬宗祐)
「空間の構築について」篠原雅武
「メトロポリタン・ファクトリー/都市の隅々にまで拡がる資本主義的搾取」スティーブン・シュカイタス+ヴァレリア・グラチアノ(木下ちがや訳)
「コラム 戦後日本における空間占拠の事例、そのエッセンス 01 02 03」栗原康
「移動=運動=存在としての移民――ヨーロッパの「入口」としてのイタリア・ランペドゥーザ島の収容所」北川眞也
「妄想のパブリックアート@御堂筋」吉澤弥生
「書評 グローバル・ネオリベラリズム以後の都市/東京を読み解くために――サスキア・サッセン『グローバル・シティ』の邦訳刊行によせて」丸山真央
「書評 過剰人類の氾濫――マイク・デイヴィス『スラムの惑星』を読む」原口剛
「ソーシャルメディア――社会をひらくメディア/媒介する社会(横浜国際映画祭セッションレポート)」吉澤弥生

★「蜂起 Insurrection」
「メトロポリスと蜂起」にまつわるノート」Trans-J Impetus
「メトロポリスの建築に関わる理論的諸問題」 co.op/t
「かくして、メトロポリスに狼たちが」a.n.
「どうしたらいいか?」Tiqqun
「アテネの労働者から学生たちへ」
「言葉と身ぶりと共謀――不可視委員会 『来るべき蜂起』刊行によせて」谷口清彦+永田淳

★VOL/BOOK
「国家批判におけるマルクスの「貫徹」?――ネグリ/ハート『ディオニュソスの労働――国家形態批判』」柏崎正憲
「砂漠からの離脱について」和泉亮
「崩壊を生き延び、その帰結に立ち会うことを促す一冊――フランコ・ベラルディ『プレカリアートの詩――記号資本主義の精神病理学』」松本潤一郎

★VOL/SPECIAL
「ジョン・ホロウェイ小論――「問いかけ」による組織化をめぐって」高祖岩三郎
「大逆事件再考――過去は死なない」徳永理彩
「インタビュー 海賊的アナキズムの詩学」ハキム・ベイ(聞き手・松本麻里、高祖岩三郎)(萩谷海訳)



前号より、随分コンパクトになりました。寝転んで読めるのは非常に嬉しい。



帯を外すとこんな感じ。相変わらずセンスいいです。


《帯文》
「金融恐慌以降、「空間」をめぐる問いはかつてなく先鋭化し、世界のあらゆる場所が都市化をめぐる闘争の現場と化した。」


アート、アクティビズム、理論研究など現代思想の最先端に触れたい人は必読です! これまでこのようなジャンルの本があることを知らなかった人は、世界観、人間観が変わること間違いなし。『VOL』は悟性を磨ぎ澄まさなければ読めない数多の思想書とは一線を画しています。これを読めば湧き起こる情念を静かに定位させつつ、生命力・創造力が満ちあふれるよろこびを感じられるでしょう。買ってください!


初心者の方には『VOL Lexicon』(資本主義とは別の世界を構想し、無数の行動と思考をつくりだすためのキーワード集,2009.7刊,¥1575)から読むことをお薦めします。しかしamazonのカスタマーレビューはひどい。






裏表紙では項目が一覧できます(画像をクリックして拡大→拡大した画像を更にクリックすると特大サイズに)。「海賊」とか「泥棒」とか「魔女」とか「暴走族」ってのまであるのがユニークです。

ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』が待望の文庫化!

ドゥルーズ生前最後の著書、『批評と臨床』が河出文庫になりました! 文学畑でドゥルーズを読もうかどうしようか、とか考えている人はぜひこの本から読んでください。序言を含めて18編の短い文章を集成した本です。守中高明・谷昌親両氏の訳、編集はドゥルーズの文庫化を推進する阿部晴政氏、カバーデザインは戸田ツトム氏です。


《内容》
・序言
・第1章 文学と生
・第2章 ルイス・ウルフソン、あるいは手法
・第3章 ルイス・キャロル
・第4章 最も偉大なるアイルランド映画 ――ベケットの『フィルム』
・第5章 カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について
・第6章 ニーチェと聖パウロ ロレンスとパトモスのヨハネ
・第7章 マゾッホを再び紹介する
・第8章 ホイットマン
・第9章 子供たちが語っていること
・第10章 バートルビー、または決まり文句
・第11章 ハイデガーの知られざる先駆者、アルフレッド・ジャリ
・第12章 ニーチェによるアリアドネの神秘
・第13章 ……と彼は吃った
・第14章 恥辱と栄光――T・E・ロレンス
・第15章 裁きと訣別するために
・第16章 プラトン、ギリシア人たち
・第17章 スピノザと三つの『エチカ』

[訳者あとがき]
ドゥルーズと文学の問い   守中高明

《裏表紙に付された紹介文》
「文学とは錯乱/一つの健康の企てであり、その役割は来るべき民衆=人民(ピープル)を創造することなのだ。文学=書くことを主題に、ロレンス、ホイットマン、メルヴィル、カント、ニーチェなどをめぐりつつ『神の裁き』から生を解き放つ極限の思考。ドゥルーズの到達点をしめす生前最後の著書にして不滅の名著。」






◆ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』(守中高明・谷昌親訳,2010.5,河出書房新社)文庫版・¥1365


河出文庫のドゥルーズ、次の書目は『襞』あたりかな?

 

2010年5月6日木曜日

ジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ』

解放の論理としての美学=感性論の論理とは、まさに、個人がその階級的本性に割り当てられたものとは異なる感性的な経験形式を自らに与えることの可能性なのです。


ジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ ~美学と政治~』(梶田裕訳,2009,法政大学出版局)93頁

本書はランシエール哲学の核心ともいえる政治と芸術の本質的関係について詳述したものであり、極度に凝縮されたテキストなので192頁の分量のうち、本文はたったの64頁。他は日本語版補遺として、訳者によるランシエールへのインタビューと解説(といっても立派な論文である)で占められる。訳者・梶田裕氏によるインタビューと解説は本当にありがたかった。

ネグリのテキストが変革のための投企として実践の中で読まれてこそ意味があるのに対して、ランシエールのテキストは実践の前提となる諸問題を徹底した厳密さで哲学的に極めてゆくものである。その思考の論理はこれまでのどの思想家とも違っているため(フーコーなど、ランシエール思想を構成する系譜を探ることはもちろん可能だが)非常に難解である。読み解くにはかなりの根気が必要だが、その厳密さゆえにランシエールの哲学はいわゆる標準的なアカデミシャンや評論家、哲学思想オタク、その他何かを書くために読んでいる詩人など、悟性的「読解」によって思想上の規範を得なければ安心できない読者や、論文生産や売文売名行為のための消費的「読解」に勤しむ読者にとっても、相当な読み応えを感じることだろう。
だが、論文であれ、評論であれ、批評的言説を可能にする条件それ自体をラディカルに掘り崩すランシエールの哲学を読み解くことができるなら、悟性的「読解」、消費的「読解」によって絶えず「新しい」思想を弁証法的運動のなかで求めていた者にとっては、ここが真に新しい思想への入り口となるに違いない。ただし、ぐぅの音すら出ないほど強い説得力をもっているので、しばらく何も書けなくなることくらいは覚悟した方がいい。(ぼけたことを書き散らして真摯な表現者をいじめる暇があったらこれを読んで出直せ、といいたくなる輩の名前を数名、即座に思い出した)

一方、それでも政治と芸術を切り離すことが可能だと信じて疑わない者にとっては、意味不明な暗号でしかないだろう。が、『現代詩手帖』あたりでは分かった振りしてしかつめらしくランシエールを語り出す輩がそのうち湧いて出てくることが容易に想像できてしまう。いつものことといえばいつものことだが、滑稽の極みである。

引用した一文は訳者によるランシエールへのインタビューの中の一節である。




先日読み終えたばかりの『イメージの運命』(堀潤之訳,2010,平凡社)については、また後日。こちらは具体的な芸術作品に即した論述で比較的読みやすいので、それほどびびることはない。

2010年5月5日水曜日

素人の乱5号店・店主日記

盟友、松本哉が最近個人ブログをはじめた模様。
http://ameblo.jp/tsukiji14/

真面目にバカなおもしろさです!

暇な人も忙しい人も、これを読めばなにかが変わることでしょう。

2010年5月2日日曜日

襞 ~「谷内薫作品展Ⅱ鏡花水月」所感

今回の個展は使えるもの―とはいえ、用途は自由にゆだねられたものばかりの個展。だから、作品に触れることを奨めてくれる。

両側から力がせり出し、せめぎあうかのような、尾根のある作品は人と人とが一対一で向き合う時に生じる、感情のぶつかり合いのようでもあり、穏やかな心のふれ合いのようでもあり、また愛の駆け引きのようでもある。

ここで尾根のある「花瓶」が群れとして展示されると、それがそのまま人の一群を表象した静物として、見る者の想像力を楽しませてくれる。

実用品とオブジェの間、生物と無生物の間、有機物と無機物の間、植物と動物の間、生者と死者の間、エロスとタナトスの間、作る人と見る人・使う人との間、モノと言葉の間……

谷内薫はあらゆる対極的な物事や価値尺度の間に、作品を定位させることができる作家である。
そして自我の超越性、主体の形而上学に固執していない彼女のしなやかさは、今は陶という媒体に載せられ現前しているイメージが、これからも自在に変成し、夢幻のように展開していくことを期待させるだろう。

作品の肌にある無数の襞から、そこに世界が折りたたまれている〈襞〉、というドゥルーズの概念を連想すれば、アクチュアルな問題系へと通路を開くこともできる。そのような特異な経験と理性に基づく問題意識にさえもナチュラルに接続するポエジーは、私を魅了してやまない。








京都文化博物館別館・アートンアートギャラリーにて、5/9(日)まで