2011年10月17日月曜日

野田万里子 (HANARART/三輪・今西家)

古い四畳半の一室に、塩を盛った皿を並べ、花に見立てたインスタレーション。
そのモチーフである「盛り塩(もりじお)」とは、料理屋、遊廓、寄席などの客商売において店の戸口に小さく塩を盛る慣行で、縁起を祝ったり、厄除けとして置かれたりしたもの。「盛り塩」の文献上の初出は江戸時代後期の人情本なので、形が出来上がったのはそれほど古いわけではなさそうだが、古来貴重な物資であった塩をめぐる民俗として、かなり古くまでその水脈を遡ることができそうである。

盛り塩の起源をめぐる一説に、女性が意中の男性の心を射止めるため、門口に塩を盛って置いたという故事がある。かつて妻訪い婚(つまどいこん/夫婦別居で夜になると夫が妻を訪ねる婚姻形態)が行われていた時代に、牛が塩を舐める習性を利用して、男が乗る牛を導こうとしたのだと。

彩色された塩、古い畳、格子越しに差し込む光、それらが調和した静謐な佇まいは神秘的ですらある。


 盛り塩は「盛り花」とも称ばれていたことから、これを花に見立てた作家の感性には確かなものがある。
中央の花の模様も、全て彩色した塩によって描かれたもの。

 お香のような、乾菓子のような・・・。粋である。

戸口を入って右側の壁面に掛けられた平面作品(四畳半の間とはちょうど向かい合わせになっている)。
手持ちのカメラでは写し込めなかったが、この二つの絵の刷毛で引いたような模様は、「1+1=0」という細密な文字が無数に反復されることで成り立っている。
作家の仕事はインスタレーションといい、平面作品といい、シンプルな作業の繰り返しによって構成されているという特徴が窺える。だがそれらはけっして単調ではない。一瞥して単調に感じたとしても、手仕事である以上、そのどれもが一回性のものでしかありえない。そう、差異を伴う反復なのだ。
差異と反復、反復による美的強度・・・、またドゥルーズを連想してしまった・・・。

さて、「1+1=0」が執拗に反復されたこの平面作品の前で、「1+1=0」に込めた想いを語ってくれた作家と、とりとめのない話ができたのも楽しかった。小さな一つの粘土に別の小さな粘土を一つ足したら、大きな粘土の固まりが一つになるではないか。よって「1+1=1」である、といった話から、「1+1=2」というのが実は自明ではなく、それを証明するのにホワイトヘッドとラッセルが著書で80ページ以上を費やしたエピソードにまで饒舌に話がおよぶ。すると、いつの間にかそこに居合わせた人たちも交えて自然に話が弾んでいた。原発の話、科学的形而上学と信仰をめぐる話、それとは対照的な芸術家の仕事をめぐる話などなど・・・。

それは三輪という歴史ある土地、そこに佇む古い家屋、その一室に設えられた作品たち、そして歓待してくれた作家・・・、そういった、時空を横断しながら漂う複数の/無数のアウラによってもたらされた一期一会の出来事であった。




◆野田万里子ブログ http://marikonoda.jugem.jp/





三輪エリアでの開催は10/23(日)まで。

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