2011年10月31日月曜日

岩名泰岳  (HANARART/ならまち各所)

「今回展示する絵はすべて花の絵である。父が飼っていた大和郡山の大きな金魚が死んだとき、僕たちは畑の隅にそれを埋めた。春が来て金魚のお墓に小さな花が咲いた。すべてのものはいつか必ず去って往く。しかしその暗闇から再び生まれる小さなひかりもあるということをこのとき僕は知った気がする。」(作家本人によるキャプション)





原稿用紙に書き連ねられた線は、謎の象形文字を思わせる。イメージのデッサンなのだろうが、作家自身にしかわかり得ない独自の統辞法によって綴られた記号である以上、やはりこれは詩のようなものと解するのが妥当だろう。



「冬の花」と題されたタブロー。




玄関口の三和土を少し入ったところを振り返ると屋根裏へと通じる階段がある。そこを覗き込むと・・・。

イエスや聖徳太子が生まれたという厩舎を思わせる。

画面右上にうっすらと見える髑髏のような影像は、この作品群のコンセプトをおぼろげに示唆する。

ここで生まれた芽は、やがて美しき“再生の花”を咲かせるのだろう。


(以上は全て森家邸宅)



(以上、二枚は桜舎)



伝統的な町屋空間と作家の詩精神を載せた筆力によって咲いた「再生の花」。
その絵は、空間を漂う空気に知覚が慣れ始めたころ、ようやくイメージがせり出してくる。時間をかけてゆっくりと像が浮かび上がり、そして瞼に染み込んでいく。
その遅度は古民家という空間とやわらかな調和をみせている。

それはなぜか?

絵画の表面から発せられるアウラと、見る者の意識とがつり合い、イメージが定位する、その仕方、そして対象と視覚との距離感が極めて詩的だからである。
記憶の奥にある対象を作家が捉え、それを絵画という手法で表象する、そのイメージの距離感と、見る者が自らの記憶の奥にある象徴と絵画とをイメージによって結び合わせるその距離感が、極めて近似しているのだ。
発せられるアウラと見る者の意識とがつり合う場所や様相は、見る者の精神状態や体調、天候、時間の変化などによる室内の明るさや温度など、様々な条件によって微妙な変化をみせる。その場所は点であったり、線であったり、面であったり、色や光そのものであったり・・・。
それは見る者それぞれに固有な人生の記憶、それぞれにとってかけがえのない生きられた時間〈カイロス〉との自由な結び合いを可能にする。

これを平面において成し遂げるのは、そうたやすいことではない。


強いもの、派手なもの、大きなもの、実用的なもの、スペクタクルなもの、そういった価値を志向してきた先行世代がどうしようもなく囚われ、しがみついてきた超越的な態度や、それを支える〈現前性の形而上学・・・目の前の「現実」を絶対化し、オルタな見方をする者を蔑む〉〈主体の形而上学・・・自我への絶対的な居直り〉といったものを全て溶かしてしまう、そんな力をもった作品群である。
静かで優しく、そして穏やかな佇まいではあるが、それゆえに絵画本来が発揮しうる真の勁(つよ)さを感じさせる。

その勁さは、デジタルメディアが我々の知覚に強制する感性の高速化に伴う様々な障害をも跳ね返すことだろう。



21世紀ゼロ年代の現代アートは、ネオリベバブルに沸くアートマーケットの要請や、一部の輩による無責任なアジテーション、美術ジャーナリズム、美術アカデミズムが渾然となった美学の体制に心身を規律化された関係者らによって、〈現前性の形而上学〉に規定された美学がもてはやされ、多くのスターがデッチ上げられてきた。
だが、今はどうだろう? リーマンショック以後、それまでまともな批判に耳を貸さず、もてはやし、もてはやされ、踊ってきた連中は右往左往しているではないか。(イルコモンズ「〈帝国〉のアートと新たな反資本主義の表現者たち」〔『VOL』3号所収〕を読め)

そのような状況の中にあっては、批評は衰退し、作家たちの仕事に表現上の多様性という面白さは見られても、批評的には特殊な表現主義としかいいようのないものばかりが目立つのもある意味当然であった。
表現者や御用ライターは増えても批評家は育たず、表現ジャンルの没交渉は異ジャンル間のコラボレーションの隆盛に反し、むしろ固定化が定着している。判断力批判を伴わない、単なる主観的感想を批評的に装ったものばかりが横行するのなら、作家たちが批評嫌悪や言語不信を催すのも致し方あるまい。


だが、これからは、間違いなく〈イメージの詩学〉が批評の重点になるだろう。いや、そうならねばならないのだ。
先行世代が囚われてきた〈現前性の形而上学〉〈主体の形而上学〉は、新しい世代の作家たちによって脱構築されることだろう。
新しい世代の作家たちは、その現場に立ち会う新しい批評家を求めているのだ。





岩名泰岳(いわなやすたけ)さんは1987年生まれ。1988年生まれのナカタニユミコさんと同じく、世間がバブルで狂っていた時代に生を享け、物心ついたころにはバブル崩壊。底なしの不況と社会の荒廃が進行するなかで自我を形成し、〈帝国〉が頭を擡げ、ネオリベバブルで社会が二極に分解していく時代に思春期~10代後半を過ごした世代である。

自分たちに責任のない困難を引き受け、表現者として立つことを決意したのだ。

いまだに狂った連中がのさばっているからといって、かつてのバブルや最近のネオリベバブルに浮かれた美術関係者が、彼彼女たちに先輩面・教師面をするようなことはあってはならない。


岩名さんやナカタニさんの絵をじっと眺めていると、自らをも含む世代が、どうしようもなくまとわりつかせてしまったネガティブなもの諸々が溶解していくような感覚に見舞われる。そして、謙虚な心で世界をまなざすことを促してくれる。




(見慣れない術語に戸惑った方のため、コメント欄に哲学的な根拠となっている思想家を挙げています。参考までに)




(以上、二枚は正木家)


【追記】作家の心に深い傷を残したという合併による村の消滅は、時の首相・小泉純一郎が暴力的に遂行したネオリベ政策によるものであることを記憶しておかねばならない。

1 件のコメント:

  1. 【参考までに】
    ●〈現前性の形而上学〉〈主体の形而上学〉・・・ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ以降のポスト構造主義思想全般。
    ●〈帝国〉・・・アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート。
    ●〈脱構築〉・・・ジャック・デリダ。
    ●〈美学的体制〉・・・ジャック・ランシエール。
    ●〈規律化〉・・・ミシェル・フーコー。
    ●〈イメージの詩学〉・・・ガストン・バシュラールほか、フランス現代思想による芸術論全般。
    ●〈ネオリベバブル〉・・・市場原理主義とカルト的な新保守主義との融合によるネオリベラリズム(新自由主義)がもたらしたバブル経済。〈帝国〉の擡頭によって招来され、リーマンショックにより収束。

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