何かわけのわからない声を聞いたとか、わけのわからぬ文句を讀んだとか、花の香りをかいだとか、石につまづいたとか、手に持つているものを落としたとか、そういうような吾々平生の生活において最も普通と思われるような事柄が、ことごとくダダを爆発させるところの機会になるのである。
(中略)
ダダは論理からはいらずして、還つて論理に出るのである。
1961年 糸井貫二
※この宣言は1961年の第13回読売アンデパンダン展出品作の傍で配布されたリーフで、テキストはダダカン思想の核に坐るトリスタン・ツァラと鈴木大拙のアレンジである。(『あいだ』153号「特集:いまこそ糸井貫二」より)
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