2010年10月3日日曜日

GITAI+KAGI/2人展×2  於、sample white room/ならまち格子の家

僕にとっては存在そのものが大きな謎である擬態美術協会(三堀さん)と鍵豪さんの2人展はNAPで楽しみにしていた展覧会の一つ。

以下の画像は「ならまち格子の家」会場。



これは鍵さんの作品。黒い鉄の筐体に仕込まれた赤い蛍光灯からヘッドフォンが出ていて、それを耳に当てると蝉の鳴き声だか耳鳴りだか変な金属音だかがミックスされた凶暴な音が大音量で流れてきます。この時点で普通の人ならイヤになるはず。僕も勿論、イヤになり何度も着けては離しをしていたら、鍵さん曰く「これは音楽になってるんですよ」「これを聴いていると眠くなりますね」と。彼は変態に違いないと決めつけそうになりましたが、しばらく着けているとなんとなく慣れてきて、そういえば確かに音楽かもしれないな、などと思えてきたのでした。心地よくなってきたとまで言ってしまうと言い過ぎですが・・・。これには他にも仕掛けがしてありましたが、それは会場でのお楽しみ? うーむ。(NAPが終わったらここで暴露するかも。いいのかな?)

そこで考えました。これは日常のあらゆるシーンで不快なものにいつ出くわすやもしれぬ危険がつきまとい、不快なものにまるごと囲まれているといっても過言ではない僕らの生を、一つのコンセプトにしているのではないかと。いやいや、そもそもそのように解釈する僕の自由を許容しながらもそれは僕の特異な解釈にすぎず、このわけのわからない物体はけっして開示されない謎としてしか投げ出されていないのでは・・・。など、複数の声の押し問答の中、それでもこれは不快なものに囲まれた生、そして不快なものに接し続ける中で鈍磨していく神経、そしてそれを強いる現代文明のメタファなのではないかと、やっぱり思いました。




これは鍵さんの作品の背後に据えられた擬態美術協会さんの作品。



三脚の上に載せられた装置はサーチライトのように回転しています。



赤い十字光。

正面。


離れたところにも同じものがもう一台。擬態さんの作品、この人を寄せ付けない雰囲気は確かに強烈な存在感を示しており、僕がここにいた何十分かの間、だれも近づいて見るひとはいませんでした。鍵さんの作品と面白い対照をなしています。



不快なものに囲まれてはいるけれど、人はみなそれぞれ精一杯の日常を生きているわけですが、この装置はそれを超越的な審級から捉える不気味な監視者の目のように思えました。


ここ「ならまち格子の家」は旧市街・奈良町の中枢部にある、奈良町屈指の観光名所でもあります。
なのでひっきりなしに観光客が行き交い、作品は不特定多数の人々とつかの間空間を共有します。
ちょうど僕が行った時には鍵さんが居たので少しお話を伺えたのですが、いつの間にか姿を消していました。
それで考えたことをノートにメモしていたら、五、六人のおばちゃん集団の中の一人が「ちょっとにいさん、これはどういうものなんでしょう?」と声を掛けてくれました。それで、「あのぉ、作家ではないんですけどぉ・・・」とおことわりした上で、先述したようなことを一通りしゃべったところ、「へぇ~、深いんやねぇ~」と感心した様子。それは、「なんだろう?」と思って訊いてはみたけど饒舌に語るのをみてうんざりしたけど社交辞令的に出た「へぇ~」ではなく、本当に心から感心したときに出る「へぇ~」だったので、素直に嬉しかったのでした。お仲間の皆さんもちゃんと聞いてくれましたしね。


以下の写真はもう一つの会場、sample white room。格子の家での展示が不特定多数の人を巻き込むものであるのに対し、ここはそこに行ってアートをみようという意思のあるものだけが訪れる場所。
鍵さんの作品。菱形に組まれた鉄のフレームの上に赤い電球が取り付けられ、その上にもやはり赤い電球がぶら下がっています。


ぶら下がる電球を下からみたところ。作品を凝視しているとフィラメントの強い光が否応なしに網膜を襲い、しばらくは残像が焼き付いて離れません。そのフィラメント、まるで染色体のようでした。
だとすれば、電球は細胞核? 格子の家のは聴覚を襲い、こっちのは視覚を襲う・・・。でもどちらも自分から近づかなければ襲われた感じはしない・・・。今にして思うと、ですが。

うーん、でも、これをみて最初に出た言葉、「わけわからん。」
しばらく擬態美術さんの作品をみた後、もう一度眺め回して考えたけれどなにをどう考えてもやっぱり意味がわかりませんでした。意味が分からないと率直に伝えると、「それは最高の褒め言葉です」と鍵さん。
意味の不在ということは、あらかじめ鍵さんの作品コンセプトに入っていると思うのですが、わけのわからないものの意味、ということを考える意味はやはりあると思います。

「人間は自由の刑に処されている」と云ったサルトルをもじって、「人間は意味の刑に処されている」と云ったのはサルトルの友達でもあったメルロ=ポンティ。
しかし、そのようなオブセッションから解放されたところにある、あるいはそこに向かうのがアートなのだとしたら・・・。
それはものごとに対しての安易な判断の中止、あるいは留保を促すメディウムになるのでしょうか。
フッサール流に言えばエポケー、つまりは純粋意識へと至るための現象学的判断停止。

こういうことをこんな言葉で書くのは、擬態美術さん、嫌いだろうなぁ・・・。





擬態美術協会さんおなじみ、テープレコーダーの作品。一つのレコーダーでこの会場の音を録音し、カセットから引き出され露出した形で壁を這い、それがぐるっと回って別のポイントにあるプレーヤーで再生されます。話し声も笑い声も、別の装置から響く音も、色んなものがミックスされて遅れてスピーカーから出てくるのです。

これは鍵さんの作品の背後にあるものですが、テープのみ。ムーブメントはありません。


二つのクォーツ時計の秒針同士が糸で結ばれ、秒を刻む度に互いが互いを引き合い、短針と長針は10時10分で凍ったまま。




超音波スピーカー。

下の写真は擬態さんおなじみ、引っ張り合う二台のターンテーブル。レコードはシェーンベルク。





そう簡単にわけなど分かってたまるものかと言いたくなったり、分からせてたまるものかと言外に語るモノやコトに接することの面白さ、という現代アートの原点に帰ることを促してくれているのかなあと思いました。

鍵さんと擬態さん、格子の家とsample white roomとの対照性が非常に面白い展覧会です。

7 件のコメント:

  1. うーん、なるほど。
    ぼくは格子の家の作品は、特に不快だとは感じませんでした。たしかに鍵さんのは眩しいしずっと聴くには大音量でしたが、人工的な音って蝉の音みたいに聴こえるんだな、と。
    擬態美術さんの作品は、壁に沿って光が延びたり縮んだりして面白かったです。あの格子の家という空間だからこそとても不思議でかっこいいなと思いました。仕掛けには気づけなかったのでまた行ってみようと思います。

    sampleいいとこでした。
    擬態美術さんの作品は単純作業が好きなぼくにとっては眺めていると無心になれる作品でした。時計ってふたつ合わさると振動になるんやなーとか、テープってこんな風にも使えるんやーと未来の工場に感心しました。鍵さんの作品はよくわかりませんでしたが、静止した流れ星のようでした。

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  2. 格子の家の鍵作品、ちょうどこのとき夜勤明けだったし聴覚が過敏になってたから凶暴に感じたのかな? うー。

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  3. 鍵さんの作品 2
    sampleの展示、また見ましたが、角度を変えて見るとまた違った印象を抱きました。いろいろと鍵さんともお話をさせていただきましたが、ぼくには上から落ちてくる光が、現代に生きるわれわれの魂であり、それぞれが孤立し分断され、落下している、そして下で待ち受けている整然と並ぶ光たちは、落下してくる魂を受けとめる愛なのか、それとも墜ちていった光を弔う蝋燭の灯火なのか、などなど、様々に思いを巡らせました。家にこんな証明の部屋があれば、特別な使い方ができそうです。

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  4. sampleの鍵さんの作品、少しだけ理解の足がかりが得られました。対極的な価値観。超越性と内在性、正規軍とゲリラ、ツリーとリゾーム・・・。でもその関係はいつ反転するか分からない・・・。

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  5. ギタイです。
    >こういうことをこんな言葉で書くのは、擬態美術さん、嫌いだろうなぁ・・・。

    別に嫌いじゃないですよ。亰彌齋さんらしい言葉ですし。
    格子の家というパブリックスペースでのお客さんの反応、
    例えば「ナニこれ?!」って素直に叫んでるようにさえ聞こえる言葉も
    とても参考になりました。
    格子の家のお客さんに、私は主にこう答えていました。
    G「いま、奈良で100カ所以上の場所で100人以上の作家が美術展をしています。そのなかのひとつです。」
    そして、ときどき
    B「なるほど、美術か、、、凡人には分からないんだよ。。。」
    と言われる方もありました。
    G「いえ、分からないのは私の作品に欠けているものがあるからかもしれないので、今、率直な感想を仰っていただけて嬉しく思います」
    (分からないという反応を聞けなくなるのは危険なことでもある)
    B『あ、そうなのか。いや、ありがとう』(笑顔付き)
    そういって下さった方もいらっしゃって、幸せな気持ちになりました。
    ともすれば、いくつかのフェスが町おこしやエコロジーなどと抱き合わせにされて行われるなか、
    この格子の家での直な感想は、作品が、美術として解放された気分でした。
    また同時にギャラリーという美術側に閉塞された空間では、なかなか体験できないことであるとも思っています。
    ギャラリーはギャラリーで、また、使い方を考える必要もあります。
    >こういうことをこんな言葉で書くのは、擬態美術さん、嫌いだろうなぁ・・・。
    この亰彌齋さんの危惧は、サルトルやメルロポンティなど既存の知識?というの器具に頼りすぎたかな?。。。ってことですかね?
    少し、亰彌齋さんと話すのが面白くなってきました。

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  6. ギタイさま
    コメントありがとうございます。格子の家の展示は、そのロケーションといい、不特定多数の人々と接触するそのありかたが本当に素晴らしかったですね。
    こちらこそ面白くなってきたので、またお話ししましょう!

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