2014年11月20日木曜日

岩名泰岳・衣川泰典・松井沙都子「在り処をみる」(衣川泰典キュレーション/はならぁと2014こあ,工場跡/奈良きたまち)


東大寺旧境内に位置する「工場跡」は大正14年(1925年)に建設された乳酸菌飲料の研究・生産施設だった建物で、操業当時の記憶を宿す器具や機械類とともに大切に維持されている。
この、古代から近代、そして現在まで連綿と人々が生を営んできた場所に作品を展示する3人の現代美術家たちは、各自がそれぞれに追求するテーマのもと制作された作品を持ち寄ることで、ある〈共〉的なものの浮上を目論む。

一枚目の写真、一番奥の部屋の土間に据えられた発光するオブジェは松井沙都子「ホーム」。

白い、低い壁に囲まれたフロアリングの床に放たれた光は、工場跡最奥の空間を下から照らす。

・・・「ホーム」へ。

「ホーム」から・・・。


「在り処」とは、いかなるものが在る場所なのか?

作家の意識にフォーカスされた日常の風景が集積された、衣川泰典「スクラップブックのような絵画 #18」。
作家自身の目で現実の風景を切り取ったものでありながら、すでに誰のものでもないゆえに、郷愁、追憶、懐古、といった情緒的なものを喚起する象徴として見る人を選ばない。
記憶からはかなく消え去って行くものや、日常のあらゆる些細な物事へのいとおしみを、他者の感受性との交わりの中でポジティブな力へと化すことが賭けられているようだ。
ささやかであることを、どこまでも肯定する態度の中でそれは現勢化するに違いない。


衣川泰典「記憶のかけら_トンネル」 。
煉瓦造りの炉?に開く穴と相似形にあるトンネル。

岩名泰岳「山ノ花」。
シリーズ「蜜ノ木」の、木のうろから蜜が流れ出すフォルムが、花へと転移したかのようなイメージ。

 岩名泰岳のドローイング。
右の紙面に走る文字のようなものは、鳥の鳴き声を書き取ったものだという。「畑のスケッチ」と題された左の紙面に走る文字のようなものは虫の声か、草の声か。
生物であると無生物であるとを問わず、自然の事物に宿るエレメンタルなものとの交わりは、岩名にとって日常ものとしてあるのだろう。

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この展覧会のテーマは〈記憶〉であるが、誰か固有の人格と結びついたそれではなく、どこまでも匿名性のなかに伏在しているように思える。

ここに身を置くと、調和ときしみ、古いものと新しいもの、明るさと暗さ、冷たさと温か、などが視覚から感受できるのだが、第一印象が過去へと遡及する意識に添う衣川作品と、未来を志向する意識に添う松井作品、その両方を兼ね備えつつも古いものに溶け込んだ岩名作品、それらの一つ一つと工場跡の空間、そして移ろう時間との関係はこの展示の大きな見所である。

静的であり動的でもあるその関係性の中に、もちろん鑑賞する〈私〉も含まれている。

個々の作品が強烈なアウラを放出する工場跡の器具・機械類と絶妙なバランスで併存する、それが可能となる条件を探ることから得られるものは計り知れない。
視覚や身体の動線と作品の静的な配置とが、鑑賞という行為のなかでつねに布置を変える、そのときどきの意識の流れが、視線の中断や、不意に始まる他者との会話のなかにあってさえ阻害されないのは、この絶妙なバランスに由来するのだろう。

とりわけ、この空間にもっとも強いコントラストを与えるのが松井作品であることは一目瞭然であるが、そのコントラストによって表象される、過去へと遡及する意識と、未来を志向する意識とが、釣り合うポイントを丁寧にさぐりながらこの展示がつくられたことが窺える。

過去にあった出来事をまるでなかったことのように錯覚させ、そのまま記憶を塗り替えてゆくスペクタクルの暴力が支配する現代にあって、〈記憶〉が主要なテーマとなることには大きな意義がある。
この〈記憶〉のポリティクスをめぐる、ラディカルでありながら極めて控えめな実践からは、スペクタクルの美学への批評的視座をこそ読み取らねばならない。

松井沙都子「屋外のシーン」。

小さな部屋の奥の、白いカーテンの向こう側を想う。
射しこむ光に、声に、誘われて。

声の彼方にあるものは、〈未来の記憶〉であろうか。

ならばそれを受け取る力が、私たちに試されているのかもしれない。


◆奈良・町家の芸術祭 はならぁと2014 奈良きたまち 2014.11.7-11.16
 工場跡事務室

2014年11月15日土曜日

今村遼佑 「すます/見えてくるもの聞こえてくるもの」 (森山牧子キュレーション/はならぁと2014こあ,南大工町の家/郡山城下町)

玄関を入ってひとわたり部屋を見回したあと、最初に目を惹き付けた小さなオブジェ。

「夜の金木犀」。小さな電柱の足下に、敷き詰められた金木犀がかすかに薫る。

「ほとり」。積み重ねられた本の上に、とても小さな木馬が回転している。

かつて商店街に面したガソリンスタンドで働く人の家族寮として使われ、空き家になってからもかなりの年月が経過する「南大工町の家」。
その1階にひっそりと佇む小さなものたち・・・。

2階には家具も調度もなく、
襖も取り払われ、壁も畳も朽ちた二間続きの部屋に、
晩秋の風が吹き抜ける。
1階でみたような、作品らしい作品は一瞥したところ見当たらない。

しかし、南の間の中央には、「家と窓と木について イメージをこねくり回しながら、周回する。見えない木の根元のぐるりを巡るように。」と題された今村さんのテキストが印刷されたリーフレットが積まれ、一枚とって読むように勧められる。

この、「家と窓と木について」は14章からなる散文詩である。
これがフィクションなのか、そうでないのか、判別する手がかりは今のところ何もない。
読み始めてすぐ、畳の縁の何ヶ所からか、発光するものに気づいた。

気にせず読み進める。

(以下、いくつかのくだりを抄出)

「2
今年の梅雨が明けてしばらくした頃、アトリエの近所にあった大きな杉の木が、ある日突然なくなってしまっていた。その後しばらくは、その光景に強い違和感を覚えていたはずなのに、いつの間にか気づくとその不在感はしずかに立ち去っていた。大家のおじいさんが・・・(以下略)」

「5
その窓からは、中庭の大きな木が見えた。
ひとがいなくなってだいぶ経つという民家で、木は巡り続ける季節を告げてきたことだろう。
空白の中でこそ見えてくる色がある。」

「7
止まったままの柱時計を直そうかと文字盤を外してみたが、どうやら分解して洗浄しなくては直らないようだった。ゼンマイを巻いて振り子に重りを付けて揺らすと数十秒は動くが、やがて止まってしまう。(中略)・・・鐘の方はちゃんと動いて時刻の数だけ時を打ち、がらんどうな部屋に心地よく反響した。
庭では木漏れ日とともに、時間が落ち葉のように降り積もっている。

「8
古い照明が点滅を繰り返すように、長い過去をもった建物は、現在に過去が時折ちかちかと交錯する。その点滅は眩暈に似て、足裏の地面の感触を頼りなくさせる。」

「11
流れ続ける時間の中にあっては、動かない方が時間を感じられる。昔作った本の上に小さな回転木馬が回る作品が、あるギャラリーの中では、ほとんど止まって見えたのに、そこではむしろ速く見えた。(以下略)」

「12
夜の道路で曲がり角を曲がった拍子に金木犀の匂いにぶつかった。いつもよく通る道が不意に質感を変える。
(中略)匂いに関する記憶はいつも不確かなのに、何よりも記憶に直に触れたような気がすることがある。巡る季節の螺旋を・・・(以下略)」

「13
落とし穴から上空を見上げると、過去と未来が直線で・・・(以下略)」







敷居をまたぐ、
部屋を眺め回す、
そこにあるものをじっと見る、
階段を昇る、
部屋を眺め回す、
畳に腰を下ろす、
風にさらされる、
綴られた詩を読む、
頭をよぎるものに心身を任せる、
外の景色に見入る、
階段を降りる、
一度みたはずのものを、ふたたびじっと見る、
庭にさす光を感じる、
家を後にする、

そして今、一連の出来事を思い返す・・・


今村さんと森山さんが見せてくれたものは、「先端的な」と一般にいわれている現代美術を条件付けるものに対し、つねに異なる美学があることを示す、すぐれて詩的な実践である。


◆奈良・町家の芸術祭 はならぁと2014 郡山城下町 2014.11.7-11.16


西嶋みゆき「たまおくりのはて」(はならぁと2014ぷらす,柳花簾・洞泉寺町の町家ほか/郡山城下町)


「たまおくりのはて」

柳花簾(りゅうかれん)の奥まったところ、マッチで象られた金魚が底を這うように泳ぐ二つの水槽のガラス壁を、二つともどもに映像を透過させるインスタレーション。
立てられた一本のマッチに、火のついた別のマッチが寄せられ、接がれるように火が点(とも)される。
さかんに炎が上がるのはほんの一瞬だけ。
映像は、その一本のマッチが燃え尽きるまでの束の間。

水に棲まう金魚と、短く細い軸木に点るマッチの火。
遠い二者を結ぶものとしてのマッチが、
大切な人の思い出を喚び醒ますよすがに・・・

うつくしさと、はかなかさと・・・

「泡沫の目合い(みつぼのまぐわい)」

見上げると、おぼろな光を透かす薄い膜のようなものに刷られた金魚の群れが、かすかに揺らいでいる。
ひんやりとした空気が流れている。

「たまおくりのはて -なれのはて-」

梯子を登ると、金魚の群れが刷られたポイ(金魚すくいの道具)が燃えさかり燃え尽きる映像と、燃えがらのようになったポイが並ぶ。


西嶋さんが金魚の群れを刷るときの版木は、長年、様々な作品の版として反復的に使われているのは周知のことであるが、反復される金魚の姿のみならず、西嶋さんの行為それ自体もまた、私たちを惹き付けてやまない魅力の源である。




洞泉寺町の町家、古い箪笥の抽斗のなか。


※西嶋さんは、以上のほか、カフェ・さくら舎でも展示している。
※「たまおくり」(魂送・霊送)とは、盂蘭盆(うらぼん)で祀った死者の霊を陰暦7月16日の夜に火を焚いて送りかえすこと。


◆奈良・町家の芸術祭 はならぁと2014 郡山城下町 2014.11.7-11.16

野田万里子「ながれゆく」(はならぁと2014ぷらす,元星野美容室/郡山城下町)

 廃業後20年が経過した美容室をまるまるつかった展示。
鏡に、窓ガラスに、
ドローイングされた図像からは、美くしくありたいという願望や美しいものへの憧憬が湧き上がる様子が窺われる。
そうして、
その反照から、根源へとなにかが溯ってゆく感覚に見舞われる。

今回、野田さんは以下のようなテキストを会場で配布し、入り口ドアのガラスにも記している。

むかし、大学の時にお金が無くて画材も買えずにいました。
悩んでいるとお腹がすき、パンを買いにコンビニにゆきました。
コンビニでふと横を見ると、経済新聞が目にとまり、そこには
デフレだの、株価だのがまるで日本国中がその問題に直面している
かのように大きく書かれていました。
しかし私は思います。たとえデフレだろうが株価が乱高下しようが
私のサイフには200円しかないし、私は今お腹がすいているし。
私はその200円で経済新聞を購入し、家に持ち帰り
思い切りらくがきしました。(抜粋)

これはそのときの日経新聞(2007年11月15日付)になされたドローング作品。
90年代からうんざりするほど氾濫し、人々が踊らされてきた「規制緩和」「改革」なる言葉が、巨大資本の優遇と個人事業者の圧迫、その結果としての地方都市の衰退という現在に連なる問題を隠蔽的に象徴するものであることに思いが到る。都市が直面している問題は、人為によるものであって自然現象ではない。

これは地域型アートプロジェクトの開催が全国各地で要請されている現状の、大きな原因であることはもはやいうまでもないが、野田さんは巨大資本とは対極にある丸腰の表現者として、当時も今も、ずっと対峙しつづけている。
だが、それは存在論的な対峙であって、政治性や社会性をもったアートとして狙って制作されたものではない。

野田さんの日々の営みのなかで生み出されたものに、こうして応答することができる、そのことにこそ大きな意味があるのではないか。

何気なく落書きした女の子の影像を拡大し、新聞紙に鉛筆で描画した作品が、鏡に映る。
HANARART(はならぁと)2012・旧川本邸会場での野田さんの展示から、こだまするものに耳をすませてみたい。


◆奈良・町家の芸術祭 はならぁと2014 郡山城下町 2014.11.7-11.16

2014年11月14日金曜日

伊吹拓「終わらない絵」(木津川アート2014,NTT)


眺めるというより、絵の前に心身を晒しているような心地になる。

理性的な思惟にまつわる語彙も、理性によっては捉えきれない情念や感性にまつわる語彙も、立ち現れた途端になにかがすり抜けてゆく。
しかしそれで終わるわけではない。
たとえ書き付けることができたとしても、それは表象できないものの輪郭をなぞるような言葉にしかならないのだが、やはりそこで終るわけではない。
また、絵とはまったく関係のない想念をもったまま絵の前に立ったとしても、絵は感性的なあらゆるものに作用して、絵がない場所にあってはありえない展開を、想念にもたらすことだろう。

・・・などと考えていると取り留めがなくなってくる。
伊吹の絵に面したり、絵のことを思い出すと、いつも言語を統御する力が緩んでしまうのだ。
それは落ち着きとしかいいようのない境地へと、心が到りついていることと関係があるらしい。

そのとき、私の脳や感覚器官はどのような状態にあるのだろうか。とても興味深い。

"言葉を拒絶する絵"とでもいうしかない、抽象絵画がここに。


木津川アート2014  11.2-11.15

2014年11月13日木曜日

林直「ユメカウツツカ」(木津川アート2014,寺前邸倉庫)



大正期にベスト・ポケット・コダック(通称:ベス単)というカメラが輸入され流行したそうだが、その古いカメラのレンズを現在のカメラに移し替えて木津川市の人々や集落の様子を撮ったスライド・ショー。
百年前から続く風景と、百年後に残したい風景をめぐって、百年前に自分がいたら・・・、百年後に自分がいたら・・・、と作家は空想する。
ベス単のレンズが描写するレトロでソフトな印象が、そんな作家の空想から、モデルになった人や、写真を見る人の空想へと差し渡される仲立ちとなっているようだ。


木津川アート2014  11.2-11.15

木津川アート2014 路傍の風景 

相楽(さがなか)神社。塀の外からも見える浅山美由紀さんのインスタレーション。


水路に挟まれた道の角に立つ小杉俊吾さんの彫刻。このあたりの路地に張り巡らされた古い水路は、造形的にも面白い。 (大里地区)

水路を堰き止めて作った「池」で養殖される巨鯉。

ニュータウンエリア、相楽台小学校沿いの街路樹の上で佇むキツツキ。

近鉄高の原駅北側、線路沿いに流れる渋谷川。瀧弘子さんはここで赤く長い衣を引きずって歩くパフォーマンスをした(その映像を含むインスタレーションは女性センター2階で展示されている)。

私は昔、ここで野生のタヌキをみたことがある。

70年代初頭、ニュータウンが造成される以前はここ平城山(ならやま)丘陵には無数のタヌキがいたに違いない。
だが、私がタヌキをみたのは前世紀の末ごろと今世紀初頭のことである。



木津川アート2014  11.2-11.15

城戸みゆき「泳ぐことさえできるというが」(木津川アート2014,旧漁協事務所)




廃屋になって久しい旧漁協事務所に残された古い漁具の数々を、なにかの物語が演じられるジオラマのように仕立てたインスタレーションが、この入り口の奥に広がっている。
当然といえば当然であるが、朽ちた建物や使い古された漁具が鑑賞者の感性によびかけるものは、新しい物語ではない。

しかしある時代が過ぎ去っても、そこに人々の営みが続く限り、新しく生まれるものはなにかをそこに接いでゆく。
それを象徴するかのようなシーンが、別の部屋にある。



木津川アート2014  11.2-11.15

楢木野淑子「そこに立つ、存在する」(木津川アート2014,土師山公園)


陶板を積み上げることで構成された柱状のオブジェが、公園の開けた場所に林立する。
この作品をギャラリーwks.のホワイトキューブで初めて見たときには、想像力で補うしかなかった風や、移ろう陽光が、描かれた形象をイメージに変成する力をしずかに後押ししてくれる。
そうして映し出されるものは、有史以前から刻々と積み重ねられてきた自然や人々の営みの、もっとも豊穣な要素をあらわす象徴的なイメージであろう。
季節が晩秋であることは、ここに佇むことの意味を、よりいっそうゆたかなものにしてくれる。


木津川アート2014  11.2-11.15

2014年9月23日火曜日

栗棟美里 "FILM Installation" 【TRACE FILM BAR】-01  (京都)

時間にうつろう現存在の儚さ、壊れてしまったものへの愛おしみ、そして再生への展望を込めたシリーズ〈Crush〉の最新版はドゥルーズの大著『差異と反復』から着想を得たインスタレーションである。

それぞれのパネルには割れたDVD-Rの写真がプリントされており、 7列×7列、計49枚が壁に並ぶ。
これらのディスクは大量生産された、さして珍しくもない器物ではあるが、ひとつとして同じ割れ方をすることはない。

室内は暗い。

この壁の反対側からは水琴窟の音が響き渡り、水滴のリズムに連動してディスクの一枚一枚に青いスポット光が照射され、割れ目にあしらわれた銀箔がきらめく。

ところで"7"は、ヒンドゥー教の〈七つのチャクラ〉、キリスト教の〈七つの罪〉〈七つの徳〉、一週間〈七曜〉に配された天体、などを想起させる。
また"49"は、仏教において死者が此岸と彼岸との狭間にいる日数とされる。

ディスクが記憶媒体として製造されたものであることも、忘れないでおきたい。

破砕されたディスクの欠片は、床面で永遠を象徴する"∞"にかたどられている。


【TRACE FILM BAR】-01 Misato Kurimune "FILM Installation" @trace 2014.9.20-23

会場のtraceは京都水族館北側としておなじみであるが、ここは平安京では左京八条一坊十六町に位置しており、12世紀以降短世代で土地が売却され所有者が転々と変わった末、東寺領となったことが分かっている(角田文衛監修『平安京提要』〈1994,角川書店〉を参照)。


車史噯(Cha sae) 展 「on the line」 於、ギャラリー白(大阪・西天満)

左と右、上と下、いずれもキャンバスの長辺に平行した線によって中央を分かつ構図がとられている。
これらの抽象絵画は、植物がモチーフである。
それが喩的なものや象徴的なものを喚起する手がかりとなる。
画面中央の線は植物の茎か葉脈の中央脈を思わせる。

線から外側へ流れ出すようにも、線へと流れ込むようにもみえる。
境界であるようにも、中心であるようにも。

動きを表す要素は、補色の関係にある赤と緑によって描かれている。

これは、ある対極的な性質のもの同士が、あるいは同質的でありながら対極的な布置にあるもの同士が、そこを軸に交わりをなすことが示唆されているようだ。
だが、それがどのような交わりであるかの解釈は、鑑賞者にゆだねられる。
あるいは・・・。




車史噯(Cha sae) 展 「on the line」 ギャラリー白 2014.9.22~9.27

2014年9月22日月曜日

林真衣 展 於、Oギャラリーeyes (大阪・西天満)

「ミラーカーテン 07」(112×324㎝)

ミラーカーテンとは熱や紫外線や外部からの視線を遮断し、必要な光だけを部屋に入れるカーテンのことだそうだが、林さんはカーテンに世界を映す鏡としての相をみる。
それは、内と外との境界を画する窓にしつらえられた、大切なものを保護するやわらかな幕である。


ハンドミキサーで泡立てた絵の具をキャンバスに流し込み、乾燥するなかで泡がはじけたり皺になったり、肌理が生成してゆく途上において描画する。
絵の具と油の配分、気温や湿度の違いによっても仕上がりが異なるという。
揺れ動くカーテンに映る光や影、その向こう側に広がる風景が、日々の記憶を宿すようにそこに集められる。

壁に掛けられたキャンバスを窓に見立てるならば、眺める私がいる場所は部屋であろう。

絵肌を眺めていると、〈襞〉という概念を想起した。

「Dear ムラサキノサキ」

紫、とは深遠なるものの象徴でもある。


◆林真衣展 Oギャラリーeyes 2014.9.15~9.20




2014年9月12日金曜日

山岡敏明 展「Phangutic」 於、GLAN FABRIQUE la galerie (大阪・茨木)


グチックguticとは、具象的かつ抽象的な、しかしそのどちらでもない原初的で未分化な形象である、と山岡作品の鑑賞者の間では一般的に了解されている。

例えば「グチックとはAである」という命題が提示された瞬間、グチックの現前は非Aへとすり抜けることを免れえない、そんな特徴がある。

私は2013年3月の個展会場(ギャラリーPARC)で「GUTICとは何か?」なるアンケートに、
現象するモノやコトの彼方から意識を引っ張る力。あるいはその力がたまさか表した形相(けいそう)」
と回答したのだが、何かを言い当てたような気分が持続する時間はそう長くない。

ならばグチックが一体なんであるのかは、鑑賞者の数だけ答えがあるとしか言いようがない。この事実もまた、山岡作品の鑑賞者の間では一般的に了解されている。
しかし面白いのは、つねに終わりのない力動性のなかに身を置く山岡自身においてすら、われわれと同様、時間のなかで都度異なる答えに至っているようにみえることだ。

タブローとして、またオブジェとして提示された作品は、山岡にとって直感的に納得できる形で現れたものを、ひとまずの形として凍結した、ということだろうか。
あるいは、提示されたものとは異なるものの現前が示唆されているのだろうか。

いずれにせよグチックは、「現実とはなにか?」「形とは何か?」「芸術とは何か?」「存在とは何か?」といった問いを、それ自体に内包していることだけはたしかである。

私にとってはグチックという芸術も芸術家としての山岡敏明も、ともに深い謎なのだが、その解明への欲求を落ち着かせなければそもそも入り口にすら近づけそうにない。ここはひとつ、ハイデッガーの言葉を引用して、昂揚した自我を鎮めたいと思う。

芸術それ自体が謎である。謎を解くという要求は筋道を外れている。謎に遭遇することが課題となる。

(関口浩訳『芸術作品の根源』平凡社ライブラリー版131頁)


(この写真は、グチックがドローイングを通じて生成変化していく様子をアニメーションによって捉えた映像の一齣である)



山岡敏明 展「Phangutic(ファングチック)」 GLAN FABRIQUE la galerie 2014.9.4~ 9.23
   

2014年9月6日土曜日

浅野綾花 展「ここに住んでいる」 於、gallery&space SIO (大阪・南船場)

「ヴィーナスアットホーム」

「谷町九丁目に来れば」


ひとつひとつの作品は、作家と近しい人々の実在する(私的な)物語がモチーフになっている。

版を重ねる過程で、風景は切り取られ反復される。

昨日と同じ場所に立ってみたとて、今日も同じ景色が見えるとは限らない。

(いな、そもそも同じではありえない)

ささやかな親密圏を大切にすることと、インターフェイスをひらくこと。

その両立はいかにして可能か?

この展覧会はかかる問いへの回答でもあるだろう。


「おかえりフラッグ」

「谷町と翼」
画面左奥のビルはあべのハルカス


◆浅野綾花 個展「ここに住んでいる」 gallery&space SIO 2014.8.25~9.7


YOSHINORI HENGUCHI "LIZARD TELEPATHY FOX TELEPATHY" CHIN MUSIC PRESS,SEATTLE, 2014



啓示というほど大層なものではない、降ってくるマヌケな言葉のオートマティスムによって、一見非現実的なイメージの火花に笑いがこぼれるのは必定ともいえる。
ところがその笑いの意味を理性的に解きほぐした瞬間、恐るべきリアルに直面する点で、すぐれたシュルレアリスムの実践ともいえるのだが、辺口本人が自身の詩法についてそんな自覚をもっているかどうかは謎だし、そのような説明が無効となる作品も少なくない。
なにより、分析的な読解などになずんでいるあいだに取り残されてしまうだろう(何に何が取り残されるのだ?)。

言葉はすべて等身大。
ビートニクのエートスと、猥雑にして誠実な抒情、そして寓意的な物語が其処彼処に現れるアナーキー。


詩人・辺口芳典の、写真家としての相貌も窺える編集になっている。

YOSHINORI HENGUCHI (辺口芳典)”LIZARD TELEPATHY FOX TELEPATHY (トカゲのテレパシー キツネのテレパシー)” Chin Music Press,Seattle  
(David Michael Ramirez Ⅱの英訳によるバイリンガル詩集)

2014年9月3日水曜日

拙稿「交わりの重なりから夢想の回帰へ ~関西圏における二つの潮流」(『現代詩手帖』2014年7月号「【特集】詩からアートへ/アートから詩へ」)未掲載写真図版

岩名泰岳「ドローイング」(2013.10/ギャラリーあしやシューレでの個展) 

高木智広「落鳥の森」(2013.1/グループ展「溶ける魚 つづきの現実」より)
夏を迎えようとしていたある朝、家の前の道路に鮮やかな青いカワセミが落ちて死んでいた。その時、頭の中にこの鳥を帰すべき原始の森のイメージが立ち現れ、それを夢中で描いたのが落鳥の森という絵だ。まるで天からの啓示のような美しい鳥が何処からやって来たのか不思議にも思うが、私も原始の森の中に出来た街に住んでいることをこの鳥が思い出させてくれた。無意識が意識の一部であるように、人間も自然の一部なのだから、共に暮らしていけると私は信じたい。(作家ステイトメントより抜粋)

 田中秀介「越えてきた眼前」(2013.12/グループ展「夜水鏡みがかず見るよ - 死と詩 -」より)

 しまだそう「少年少女の※諸々モメロケット図鑑(カラー版)」(2011)


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掲載が叶った下の1点もモノクロ図版だったので、カラーにて。
岩名泰岳「ドローイング」(2011.10/HANARART2011




◆思潮社『現代詩手帖』2014年7月号「【特集】詩からアートへ/アートから詩へ」

建畠晢+保坂健二朗+田野倉康一
「新しい関係性のはじまりへ――イメージ・言葉・資本」
◎座談会
白川昌生+小野田賢三+住友文彦+三角みづ紀(用語解説=小野田藍)
「生きる場のリアルに寄りそうために――前橋から歩きはじめる」
◎対話
蜂飼耳+荻野夕奈「日記を書くように――新しいコラボレーションのために」
◎コラボレーションⅠ――Female times
蜂飼耳、暁方ミセイ、三角みづ紀、杉本真維子、文月悠光
Bunkamura Box Gallery「Female times Ⅲ 新たな時代を刻む、女性美術家5人展」とのコラボレーション)
◎コラボレーションⅡ――詩をアートする
横山裕一「田中庸介「嗜虐的お化け屋敷の様相」に」
富田菜摘「大岡信「なぎさの地球」に」
◎論考Ⅰ――アートの生れる場所
管啓次郎、川延安直、杉本真維子、京谷裕彰
◎論考Ⅱ――作家論
時里二郎、江尻潔、田中庸介、橘上

◎作品
北川朱実(詩歌文学館賞受賞第一作)、タケイ・リエ
◎連載詩
川田絢音(短期集中連載最終回)、岡井隆+関口涼子

◎連載
城戸朱理(「洪水の後で」最終回)、粟津則雄、近藤洋太、
金子遊、境節、青木亮人、吉田隼人
◎Theater
富岡幸一郎、谷内修三
◎月評
水島英己、榎本櫻湖
◎新人作品
森水陽一郎、照井知二、田中さとみ、橋本しおん、
山崎修平、草野理恵子、板垣憲司、小縞山いう
◎新人選評
中尾太一、中本道代

定価1280円(本体1185円)